空間とは何か(4-1) 非ユークリッド幾何学発見における空間(前半)
非ユークリッド幾何学の発見とは一体何なのか?
ユークリッドの平面幾何学はユークリッド平面、すなわち我々が普段現実のものとして普通に理解している「平らな面」に基づいて展開されている。すなわち、それは我々の視覚的所与としての平面というわかりやすいモデルと、そこで観察される幾何学的現象がもとになっている。ユークリッド『原論』第1巻の定義や公準(第五公準(=平行線公理)も含む)などといった、いわゆる仮定(ヒュポテシス)も、そういった視覚的・現実的所与があって、それによって組み立てられているからこそ、誰でも当然で正しいものとして受け入れることができる。
そしてそうだからこそ、今まで(特に「空間とは何か(3)」で)見てきたように、ユークリッド幾何学はその空間認識がいかに不完全なものであっても、健全な理論を設計することができた。
しかし、19世紀前半に複数の人々(ガウス、ボヤイ、ロバチェフスキー)によって発見された(そして後者二人は公に宣言した)非ユークリッド幾何学においては、当初はユークリッド平面モデルのようなわかりやすいモデルがなかった。非ユークリッド幾何学の(部分)モデルが最初に提唱されるのは1868年頃のベルトラミによる擬球モデルからである。フルモデルが登場するのはクラインやポアンカレによる円盤上のモデルからで、これらは3次元ユークリッド空間に埋め込まれた曲面論からガウスのTheorema Egregiumを経て、計量のみによる空間というリーマンによる空間概念の現代化を経なければ、そもそも多くの数学者にとって十分に納得のいく空間モデルであるとすら認識されなかっただろう。
すなわち、非ユークリッド幾何学の発見者たちは、空間モデルのない状況でも、何らかの理由と根拠によって新しい幾何学の存在を確信したわけだ。その確信は、もちろん(ゲーデルの不完全性定理を持ち出すまでもなく)数学的な根拠に基づくものではない。通説では、彼らは「平行線公理を否定する公理から出発しても、矛盾のない幾何学を構築できることを発見した」と言われるが、彼らは「矛盾がない」ことを証明したのではない。
そもそもユークリッド幾何学ですら、その「無矛盾性」は非自明な問題である。それにもかかわらず我々がユークリッド幾何学の正しさを疑わないのは、それが(上述したような)目にも鮮やかなモデルをもつからだ。
それでは、非ユークリッド幾何学の発見者たちは、目にみえる空間がない状況でどのようにして、新しい空間の幾何学を見出すことができたのだろうか?彼らの理論を学ぶことで、この問いに対する回答が得られるかもしれない。そして、それは「空間とは何か」という我々の中心テーマにも、新しい示唆を与えることになるだろう。
というわけで、私は彼らの理論を学んでみたいと思った。しかし、世のほとんどの文献では(おそらくわかりやすさへの配慮から)後述するホロサイクルやホロ球面のような重要な概念や、平行角の明示公式のような重要事実を、最初から双曲幾何学のモデルを用いて説明している。これでは「モデルによらない空間の概念形成」という我々の問題に答えることができない。非ユークリッド幾何学を発見したと宣言した人たちは、どのようにして、そして何を根拠にして彼らの確信を得ることができたのだろうか?それを知るには、実際に彼らの論文を読んでみることが、どうしても必要だ。
そこで、以下ではロバチェフスキーやボヤイの考え方について、彼らの原論文に即して詳しく検討してみようと思う。アウトラインについては両者の論文を参考にするが、数学的な詳細については主にロバチェフスキーの「平行線論」(1840年)を基軸とした。そしてその後、彼らによる見えない空間の幾何学構築の過程を踏まえて、「空間とは何か」という我々の問題意識についても論考を加えてみようと思う。
特に最後の部分では、以前書いた「数学における発見のプロセス」で述べた、以下の点に注目する。
このうち最初の2点(①と②)をこの回(前半)で述べて、後の2点(③と④)を次回(後半)で述べる。「空間とは何か」という問題意識については、前半と後半を通じてしばしば論考を挿入していきたい。
以下では、寺坂英孝『数学の歴史 19世紀の数学 幾何学I』(共立出版、1981)第2章をもとにして話を進める。ただ、その過程で私なりの読み替え・解釈も若干加えることを注意しておく。ロバチェフスキーやボヤイの論文は数学的にも高度で難しく、その隅々まで水ももらさぬ説明をするのはさすがに大変である。そこで原論文ではちゃんと論証していることも、直観的に正しさが伝わると思われる部分は直観的な説明だけにとどめることにしようと思う。
平行角
ロバチェフスキーやボヤイの議論を理解する上で、もっとも基本的ですべての議論の出発点となるのは「平行角」の概念である。
ユークリッド『原論』では、平行線とは「同一の平面上で両側にどこまで延長しても交わることのない2直線」として定義されていた(ユークリッド『原論』第1巻定義23)。ロバチェフスキーやボヤイは、平行線公準(第五公準)の仮定を外した一般的な状況で、平行線の定義を次のように修正する。
この定義の自然性は、平行線公準の意味を理解している人には明らかだ。平行線公準(ユークリッド『原論』第1巻公準5)は、上記の状況で点$${\mathrm{P}}$$を通り直線$${a}$$に平行な直線は唯一だと主張する。もし、この公準を否定するのであれば、その唯一性が成り立たないので、(ユークリッド『原論』の意味の)平行線は多く存在する。そこで、そのような平行線たちの中で境界スレスレのところ、それ以上傾けてしまうともはや直線$${a}$$と交わってしまうというギリギリのところのものを、改めて平行線と定めるのである。そして、その際得られる角度$${\theta}$$は線分$${\mathrm{PH}=x}$$に依存する量なので、これを平行角$${\Pi(x)}$$と呼ぶわけだ。
だから、ユークリッド幾何学においては$${\Pi(x)}$$は$${x}$$によらず定数$${=\pi/2}$$に等しい(これは第五公準に同値である)。第五公準を否定する幾何学(非ユークリッド幾何学)においては、これは鋭角($${<\pi/2}$$)になる。
こうして「平行」の意味は新しいものに置き換えられるわけだが、従来の意味(ユークリッド『原論』第1巻定義23における意味)での「平行」は、以下では広義の平行と呼んで区別することにしよう。
この「新しい」平行の概念においても、ユークリッド幾何学における平行概念と同じく、対称律と推移律が満たされる。
このタイミングで、ロバチェフスキーやボヤイが到達する結論をザッと要約すると、以下のようになる。
(これらの結論は、本稿ではなく後半で詳しく述べられる。)
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加藤文元の「数学する精神」
このマガジンのタイトルにある「数学する精神」は2007年に私が書いた中公新書のタイトルです。その由来は、マガジン内の記事「このマガジンの名…
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