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空間とは何か(5-1)建築学的数学の終焉(1)

この文章は2024年6月29日開催のHamacho Liberal Artsで、私が行った講演「空間に住む数学」を再構成(補筆・加筆を含む)したものです。講演に招待してくださったHamacho Liberal Arts企画の皆様に感謝致します。

建築学的数学と数学対象の実在論

21世紀の数学(未来の数学)と20世紀的現代数学を分け隔てるものは何か?そういう困難な問いについて考えてみたい。

「建築学的数学」とは20世紀前半から後半にかけて極めて特徴的・典型的だった現代数学の姿を言い表した概念として私が使っているものである。この言葉は、私の知る限り私以外の人はあまり使っていない。私がこの言葉を初めて使ったのは、拙著『リーマンの数学と思想』(共立出版「リーマンの生きる数学」第4巻 2017年)で、特にその最終章である第7章の章タイトルは「建築学的数学と実在論」である。

建築学的数学とは、20世紀的な現代数学のやり方である。それを端的に述べるなら、およそ次のようになるだろう。

建築学的数学とは、人間の感性的表象や物質的外界物と独立に、そのときそのときで必要かつ本質的と思われる対象を、数学が自前で最初の土台から組み立てて作るというやり方で進められる数学である。その建築資材として、20世紀的現代数学は「集合」という単一の資材を用いる。

これは20世紀的な現代数学の典型的な姿なのであるが、それは言い方を変えれば、19世紀的な西洋数学における様々な数学史上の紆余曲折の着地点であったとも言える。19世紀という時代は、西洋数学にとって変化の激しい時代だった。その変化を私は上記の拙著で「存在論的革命」と呼んでいる。

19世紀を経て、数学は概念を対象とするようになった。その際、それらを数学の厳密な対象として許容する上で問題となったのは、主にそれらがどのような存在論的資格をもったものなのか?という点であった。結果、それまで問われることのなかった「数とは何か?」といった根源的な問いが、19世紀後半ではデデキントによって問われることになる。また、複素数や複素平面といった18世紀的古典数学が許容し得なかった対象の受け入れのためには、数学の対象の抜本的な存在論的革命がなければならなかった。

西洋数学の19世紀革命

エヴァリスト・ガロア(1811〜1832)は、その決闘による死(1832年5月31日)のおよそ半年前に、獄中(当時ガロアはサント・ペラジー刑務所に収監されていた)で、次のような文章を書いている。

オイラー以後の数学では計算することはますます必要とならざるを得なかった。しかしより進歩した科学の対象に適用されていくにつれて、それはますます困難なものとなってきた。今世紀に入ってすぐ以降、その方法論はあまりに複雑なものとなってしまったため、現代の幾何学者たちが出版する研究に見られるような鮮やかさや即時に理解できる能力、さもなければ大量の計算操作による一撃といったものなしには、もはや進歩は不可能となってしまっている。

拙著『ガロア 天才数学者の生涯』角川ソフィア文庫 p.243

19世紀前半においてすでに、数学は難しくなりすぎていた。当時の数学は数式を式変形による計算が主流のやり方である。複雑な数式で表される方程式や関数を扱うには、それら複雑は式を天才的な手法で変形して、誰もがアッと驚くような結果を出すというような、奇術的能力が必要だった。さもなければ数学を前に進めることができない。当時の数学は複雑すぎて難しすぎる数式の数々を前にして閉塞状態にあった。

この状況を打開するには、何か「計算だけによらない新しい考え方」が必要だった。ガロアはこのころすでにガロア群(方程式の根の四則演算と整合的な置換全体のなす代数システム)によって代数方程式の可解性の本質を掴んでいた。例えば、与えられた代数方程式が代数的に可解であるか否かは、究極的には与えられたデータのすべてである「方程式の係数」だけの言葉で記述できるはずだ。しかし、その記述はもしかしたらあまりにも複雑すぎて、ちょっと普通には書けないかもしれない。実際、それはガロア群という新しい対象の構造によって記述できるのである。

この発見は確かに20世紀的な現代数学の考え方を先取りしている。その意味で、19世紀前半の閉塞状態を打開する一つの端緒は、すでに開かれていたと言ってよい。もっとも、ガロアのこの仕事がまともに注目されて、本格的に検討されるようになるのは、ガロアの死のかなり後のことである。(このあたりの状況については、拙著『ガロア 天才数学者の生涯』(角川ソフィア文庫)をご覧いただくか、下記の記事を参照されたい。)

西洋数学がその閉塞状態を打開するための、真に抜本的なパラダイムを手に入れ始めるのは、19世紀の半ばになってからである。そこには「西洋数学の19世紀革命=存在論的革命」とでも言うべき、大きな思想上の変革がなければならなかった。

この革命におけるもっとも重要な出来事は、ベルンハルト・リーマンの教授資格取得講演(1854年)「幾何学の基礎にある仮説について」である。この講演でリーマンは「概念の外延化=多様体」による数学という新しい考え方を宣言した。

様々な規定法を許す一般概念が存在するところでだけ、量概念というものは成立可能である。これらの規定法のうちで一つのものから別の一つのものへの連続な移行が可能であるか不可能であるかに従って、これらの規定法は連続、あるいは離散的な多様体をなす。個々の規定法を、前者の場合、この多様体の点といい、後者の場合、この多様体の要素という。

『リーマン論文集』(足立・杉浦・長岡訳)数学史叢書 朝倉書店(2004)p.296

この宣言は仮説的な計量構造の概念(リーマン幾何学)のアイデアの発表であると解釈されることが多い。その解釈自体が間違っているわけではないが、この宣言の数学的・思想的コンテンツは遥かに壮大で深いものである。拙著(上掲書)『リーマンの数学と思想』で述べたように、この宣言は概念の外延化・空間化によって数学の新しい対象と対象野(現象界)を創造し、それを数学的活動の中心に据えようという大胆な提案である。そして、その思想が後に集合論という形で(リーマンの当初の思想の片面だけであった可能性は否めないが)結実し、集合を用いてすべての数学的対象を構築するという20世紀型の数学を到来させた。

そして、その道すがら、新しい対象の唯一の建築資材として集合(当初は多様体と呼ばれた)の存在論的資格が議論されることになった。この議論はリーマンの生前からさまざまな変奏の形で多くの議論・論争を引き起こした。例えば、ワイエルシュトラスらによるリーマン面概念への強力な疑念などは、その一つの表れでしかない。

すなわち、多様体概念の創造から集合による建築学的数学の完成というストーリーは、極めて存在論的な相貌を帯びたものであった。その革命はデカルトによる数学対象の革命に比較されることがある。しかし、デカルト革命が優れて数学対象の認識論的革命だったのに対して、19世紀西洋数学の革命は存在論的だった。その分、そのインパクトや地殻変動のマグニチュードは、より巨大である。

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