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なぜ微分積分学は不完全なのか?
微分積分学の教科書は線形代数学の教科書に比べて数段書きにくい、と(少なくとも私の身の回りでは)よく耳にする。そこにはさまざまな要因があるだろう。その中でもよく言われることは「微分積分学は何らかの意味で線形代数学より不完全だから」というものだ。
実際、線形代数学の教科書は、だいたいどの教科書も書く内容や書き方などに、あまり大きな差はない。物事を書く順序や強調するポイントなどには微妙に違いはある。このような差は、もちろん、個人の趣味を反映するだろうし、その微妙な違いによって人によっては読みやすさ・読みにくさの原因にもなり得る。しかし、とにかく大同小異あれ、線形代数学の教科書は、微分積分学に比べればどれもみんな同じように見える。
それに対して、微分積分学の教科書は、本当に人によって書き方が全然異なっている。εδを入れるか否か、実数の連続性についての記述はするかしないかといった点だけでなく、どこに力点を置くか、どのようにして読者の理解を助けるのか、そもそもどのような「理解」を目指すのか。基礎の部分はどのように隠す(あるいはごまかす)のか。基礎についてまったく書かないなら、何から始めてどのようなレトリックを使うのか。とにかく、千差万別だ。
これほどの違いが生じる背景には、何らかの意味で、微分積分学では教科書の書き方に「これといってスタンダードがない」ということがある。スタンダードがないから書きにくい。それぞれの著者の「微積観」が如実に現れる。
そして、スタンダードがないということの、もっと過激は言い訳としては、要するに微分積分学はまだまだ完成されていないからだ、というものもある。それは不完全だ、というわけだ。
微分積分学も数学の理論である。一応、物事にはちゃんと定義があり、定理にはちゃんと証明をつけることができる。理論体系が「完全・不完全」と言うと、ちょっと誤解を招くかもしれない。少なくとも、数理論理学的な意味で「完全・不完全」と言っているわけではない。「微分積分学は不完全なのではないか」と私が問うときの完全性の意味は、もっと〈日常的〉なものだ。だから私はこれからこれを「完全」とは書かずに「完然」と書こうと思う。
実は、「完然」という日本語の言葉はすでにあって、その意味は「完全」とあまり違いはないようだ。意味が似ていて、しかも数学的な用語として使われている「完全」とは一応区別できるわけだから、これは非常に都合がよい。
というわけで、私がこれから書こうとしていることは、次の問いに対する私なりの回答だ。「なぜ微分積分学は不完然なのか?」
メンタルピクチャー
この問いに回答する上で、私は数学や数学の理解に関するいくつかの概念とその用語を導入したいと思う。そのうちのひとつは「メンタルピクチャー(MP)」というものだ。
私が「メンタルピクチャー(MP)」という言葉で何を意味しようとしているのか。どんな概念や理論の理解にも、何らかのメンタルピクチャーによる裏付けがあり、それらが抽象的な概念の理解を健康的はものにしている。
例えば、「三角形」という概念は、それを抽象的・形式的なコードにしてしまうと、基本的には「(ユークリッド)平面上の3点」でしかない(つまり、形式的なデータとしては頂点として3点を与えることと等価である)。しかし、我々は三角形というものを、単なる3点の配置だけではなく、それらを結ぶ3本の線分からなる図形としてイメージすることを、自然に欲している。それは三角形という概念が、まさにそのようなメンタルピクチャーに基づいて理解されているからであり、このようなイメージなしに三角形の平面幾何学を展開することは難しいからである。
もちろん、「平面上の3点」というコードだけで理論を展開することは可能だ。理屈の上では、平面上の三角形と3点の配置は等価である。しかし、そこには何か「平面上の三角形」の幾何学の「健康性」とでも言えそうなものが欠けている感じられるだろう。つまり、メンタルピクチャーは数学の正しさだけにコミットしているわけではない。そうではなくて、メンタルピクチャーの有無は、抽象的な理解の健康性に関わる問題である。
このように述べると、メンタルピクチャーは優れて主観的で個人的なものだと思われるだろう。しかしそれは完全に主観的なものだとは言い切れない。さらに、それは個人的なものでない。イメージを言語化し、他人と共有し、それを抽象的な理論に仕立て上げるためには、出発点としてのイメージが完全に主観的で個人的であってはならないだろう。メンタルピクチャーとは、それが何らかの客観性をもつからこそ、抽象的な文脈に結びつくことができるし、他人と共有することができるし、さらに抽象的な理論を形成し発展させることができる。
また、メンタルピクチャーは完全に直観的で感性的なものだとも言い切れない。むしろそれはかなりの程度、構造的な判断もとづいているものだ。その判断は多くの場合無意識的なものかもしれないし、常に言語化できるとは限らない。言語化以前の悟性的判断に基づいているという意味では、私が各所で「日常的理論」と呼んでいるものに近い。
我々は日常的な生活を健康的に進めるために、外界の事物や現象を適度にコード化し構造化してデータ化している。日常的世界は多くの抽象的事象や、抽象化はらんでいるが、それらは我々が蓄積しているメンタルピクチャーデータ(MPD)に接地することで構造化される。これは数学のような高い抽象性をもつ理論においても同様で、それが現象として構造化され理解されるには、各人のメンタルピクチャーのデータベースに接地される必要あり、そのためにはそれ自身がひとつのメンタルピクチャーを構成する必要がある。
形式化された理論
メンタルピクチャーの対極にあるのは、形式化(formalize)されコード化された理論(FT)だ。もちろん、「形式化」にはさまざまな段階がある。三角形を「一般の位置にある3点配置」として、その同型性の概念を「ユークリッド運動群の作用により移り合うこと」と定義する程度の形式化は、人間が書く数学の論文で行われているような形式化のレベルで十分になされるだろう。
しかし、数学の研究論文における形式的議論は、例えばLean4やCoqなどのコンピューター言語による形式化からすれば、まだまだ「非形式的(informal)」なものだろう。人間のやる数学はまだまだインフォーマルであり、行間が広く、とてもとても形式的議論とは言えない。
とはいえ、ここで「メンタルピクチャー(MP)」の対極にある概念としての「形式化された理論(FT)」は、人間の書いた論文の議論のようなものも含む、広い概念である。そして、数学の厳密化とか精密化とは、このような緩い意味での形式化
(*) MP ーーーーー> FT
のことである。
この図式(*)を、今後は「形式化図式」と呼ぶことにする。数学を理論として体系化し、それを教科書のような一連の議論の流れに結実させるためには、この意味での形式化図式がその背景になければならない。教科書を書くとは、このような意味での形式化を経ることであり、そのスタンダードとは典型的・規範的な形式化図式が存在していることに他ならない。
形式化図式と数学の「理解」
形式化図式は数学を「理解する」という行為の内実とも、深く関係している。人間による数学の理論とは、単なるコードの連なりとして理解することではない。それは理論のメンタルピクチャー(MP)と、それと形式的理論との関連付け、すなわち形式化図式を構築することである。メンタルピクチャーだけによる理解は危険であるが、メンタルピクチャーによる裏付け・接地のない理解は不健康である。それは健康でないだけでなく、理解の深さがないという意味でも、完全な理解とは言えない。
メンタルピクチャーは、もともと我々の中にあって構造化されていた、さまざまな悟性的理論(日常的理論)をもとに構成されることもあるが、そうでない場合は、理論の要請に基づいて新たに構築しなければならない。前者の典型例は、ユークリッド幾何学のような三角形の合同の幾何学で、この場合のメンタルピクチャーは、我々の中にもともと構築されていた感覚運動系に根差したものである。特に視覚的な与件によって構成され構造化された感覚運動系的データベースを参照することで、そのメンタルピクチャーは構成され、形式化によって理論とマッチングされる。同様のことは、初等的な整数論でも行われているものと思われる。
これに対して、感覚運動系的に構造化された悟性的データベースに依存する部分が極端に少ない場合は、実質的にはコード化された形式的理論の解読から、各人のメンタルピクチャーが構築されることになる。おそらく多くの人にとって、線形代数学はそのような学問である(あった)だろうと思われる。線形性の感覚、ベクトル空間における「空間的直観」などは、もともと我々の感覚運動系により構造化された経験に接地できる側面は少ないだろう。となれば、その「健康的」な理解のためには、そのメンタルピクチャーは各人が(基本的には最初から)構築する必要がある。
線形代数学が難しい学問だと感じられるとすれば、まさにこのメンタルピクチャーの構築の難しさが、その第一の原因であろう。実際、その計算手順や理論自体は往々にして簡単なものばかりだ。「わかってしまえば簡単」とか「それが何をやっているのかわからない」とか「日常経験的な例が欲しい」といった声は、すべてこのような事情を背景にしていると考えると理解しやすいだろう。
完然な理論
ここまで来れば、私が「完然な理論」と言っているものの意味を説明することができる。理論は常に「形式化図式」
(*) MP ーーーーー> FT
を伴って立ち現れる。しかし、その内実には、例えば線形代数学のときのような「メンタルピクチャーの構築問題」が(程度の差こそあれ)必ずある。健康的で深い理解のためにはメンタルピクチャーによる接地が不可欠だ。そして、理論によってはメンタルピクチャーのもととなる感覚運動系的バックグラウンドや悟性的に構造化されたピクチャーデータが不足していることがある。そこを補うためには、理論的な側面からの「非形式化」
(**) MP <ーーーーー FT
という図式が開通していなければならない。
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加藤文元の「数学する精神」
このマガジンのタイトルにある「数学する精神」は2007年に私が書いた中公新書のタイトルです。その由来は、マガジン内の記事「このマガジンの名…
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