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数学はどこまで「普遍的」か?

昨年12月17日のZEN大学(仮称)(設置認可申請中)・株式会社ゲンロン共同新公開講座第4弾・加藤文元×川上量生×東浩紀「真理とはなにか──数学とアルゴリズムから見た『訂正可能性の哲学』」

では、東さんの『訂正可能性の哲学』を巡って多くのことを議論し、大変有意義な時間でした。

この鼎談は6時間以上にも及ぶ長いものでしたが、その中でももっともホットだった話題の一つに「数学の正しさは絶対的か」という感じの議論がありました。特に、東さんは私に「他の星から宇宙人がやってきたとして、彼らの数学が(我々の数学と)同じだと思いますか?」と問いましたが、それに対して私は「そうは思いません」と言ったところから、いろいろ議論が膨らんでいきました。

宇宙人の数学が我々の数学と同じである必然性はないという私の意見については、すでにnoteにも書いたことがあります。

ここにも書いたように、もちろん、初等的かつ基本的でレベルでは、彼ら(=宇宙人)の数学と我々の数学との間にも共通部分は多いだろうと思います。実際、それなりに自然だと思われる思考実験によれば、どんな知的生命体も素数の概念●●●●●は共通して持っているだろうし、さらに言えば、あくまでも初等的なレベルに制限すれば数の理論●●●●についても共通している部分は多いだろうと思われるわけです。

しかし、これらよりも大幅に概念的な複雑度が増した対象や理論の場合はどうか?例えば、$${1=0.999999\cdots}$$などは実数論の(高級な)事実ですが、この場合はどうでしょうか?地球外生命体にとっても、これは正しい数学の事実でしょうか?それともこれは何らかの意味で人間固有の考え方や認識の様式に依存している正しさなのでしょうか?

このようなことを、上のnote記事では書きました。ここでは、これを踏まえて、「数学はどのような意味で普遍的か?」「数学の正しさは絶対的か?」といった根本的な問いについて、さらに解像度の高い議論をしてみたいと思います。

問題の意味

その前にまず、冒頭の東さんのやりとりをもう少し述べて、問題の本質が何なのか検討してみたいと思います。

東さんとのやりとり(言表通りではない・敬称略)
東:他の星から宇宙人がやってきたとしても、彼らの数学は我々の数学と同じですよね?
私:そうは思いません。
東:でも、例えば、ピタゴラスの定理の正しさは変わりませんよね?
私:しかし、ピタゴラスの定理はそれが成り立つ文脈や背景があり、それをどんな宇宙人も自然と思うかどうかは明らかでないです。

このやりとりを聞いていた人の中にも、そして当事者だった東さんや川上さんもそう思った可能性は高いですが、このやりとりは、少々チグハグ●●●●です。それは東さんが私に訊きたいことと、私が答えていることのモードや内容や文脈が、うまく噛み合っていないことに起因しています。要するに、東さんの論点と私の論点が正確には一致していないわけです。

私は東さんの質問に答える側だったわけですから、東さんの論点をしっかり理解して、それに応じた答えをするべきでした。その反省も込めて、その論点の違いをもう少し詳しく、私なりの理解で噛み砕きたいと思います。

まず、「数学の普遍性」というとき、大きく分けて二つの意味があると思います。

1. 数学における正しさは論理や真理に基づいており、その正しさは人間を超えたものである。したがって、数学の正しさは人間とは独立であり、人間や地球や太陽系ができる以前から、それらとは関係なく成立していた。(よって、宇宙人にとっても地球人にとっても同じものである。)

2. 数学は数や図形など多様な対象に関する数学的現象を扱う学問であるが、それらの対象の選択や対象にまつわる現象の切り口は絶対的なものである。それらは人間や地球や太陽系ができる以前から、それらとは関係なく成立していた。(よって、宇宙人にとっても地球人にとっても同じものである。)

1の論点における普遍性を、以下では「正しさの普遍性」と呼び、2の論点における普遍性は「対象・現象の普遍性」と呼ぶことにしましょう。

「正しさの普遍性」と「対象・現象の普遍性」の間には、特に論理的な含意関係はないと思います。両者は基本的には独立の問題です。正しさが普遍的だからと言って、どのような対象を自然と思い、どのように現象を切り取るかということまで普遍的だとは言えません。もちろん、逆もまた然りです。

そして数学における「対象・現象の普遍性」を、私が全然信じていないことは、上に挙げたnote記事『宇宙人の数学は我々の数学と同じか?』で述べた通りです。そこでの論旨の骨子は、要するに数学における対象や現象に対する視点の選択は、人間の(特に視覚を中心とした)感覚運動系や身体性に強く依存していくものが多く(もちろん、その依存性が少ないものもありますが)、それらについては我々地球人の数学が地球外の知的生命体が持っているであろう数学的学問と大きく異なっている可能性が(当然ながら)高いというものです。

東さんの「ピタゴラスの定理の正しさは変わりませんよね?」という問いは、当然ながら「正しさの普遍性」についてのものだったと思います。しかし、「ピタゴラスの定理はそれが成り立つ文脈や背景があり、それをどんな宇宙人も自然と思うかどうかは明らかでない」という私の返答は「対象・現象の普遍性」に関するものです。だからこの問答は、少なくとも表層的には少々チグハグなものとなっています。

では、もし私が東さんの質問の意味を(おそらく)より正確に理解して、上に述べた「正しさの普遍性」という論点から答えようとしていたら、どうなっていたか?以下では、このような私の個人的な思考実験から類推されることを述べてみたいと思います。

「数学の正しさ」は普遍的か?

東さんの「ピタゴラスの定理の正しさは変わりませんよね?」という問いは、純粋に論理的な数学的事実としてのピタゴラスの定理の正しさは普遍的ですよね?という意味だと思います。なので、その線でもう少しこの問いを掘り下げていきましょう。

ピタゴラスの定理(三平方の定理)を述べるためには、ユークリッド平面上の三角形、辺の長さ、角度などといった多くの数学的対象について準備をする必要があります。それらの対象を数学的対象として選択し、それらの間の相互関係に関する数学的環境を整備する作業は、まさに「対象と現象」の問題です(そして、それは私の東さんに対する実際の返答が示す通りです)。ですから、ここで東さんがいう「ピタゴラスの定理の正しさ」とはそこから先の問題●●●●●●●●であるはずです。つまり、このような状況設定が十分にできあがっている状態で、そこからピタゴラスの定理に至る証明の正しさは普遍的か否か?ということこそが問いの核心だったのだと思われます(というか、そう仮定して話を進めているわけです)。

もちろん、状況の作り方(モデル選択の仕方)によっては、その正しさはただのトートロジー(同語反復)にもなり得ます。例えば、ユークリッド平面を普通に実数体の理論に基づいて構築して、三角形をその上の一般の位置にある三点として定義し、辺の長さを(まさに!)ユークリッド距離で定義してしまった場合、ピタゴラスの定理は本当にトートロジーになります。

かといって、ではユークリッド平面まで完璧に作り込まずに、もうちょっと中途半端な状況から出発して、後はロジックと人間を超えた絶対的明証性だけでピタゴラスまで到達できるのではないか?という考えもあるかもしれません。確かに、世に出回っているピタゴラスの定理の証明は何通りもあり、どれも正しく、非自明で、かつilluminatingなものばかりです。

しかし、これらそのままの(幾分直観的で非形式的な)正しさの形では、人間を超えた絶対的な普遍性を持つものとしては説得力が足りません。多くの証明は図形的直観に頼ったものばかりです。つまり、それは視覚的な現象●●に頼った証明でしかありません。そして、その普遍性を議論するなら絶対的な正しさの問題というより、対象・現象の選択の普遍性になるでしょう。

というわけで、世に出回っている図形的な通説的証明ではこの問題に答えを出せません。新しい議論が必要になります。でも私の感覚では、それも無理そうです。まずもって実数論に基づく定量的な外延構造(=線分)という考え方は、とても現象論的で視覚的です。ユークリッド『原論』や「ヒルベルトの幾何学基礎論」のような公理論的なやり方ですらそうです。これらはたくさんの公理から構築されていますが、そのどれもが「人間の視覚的現象選択からは自由だ」とはなかなか言えないのではないでしょうか。そもそも、三角形とか図形の合同とかいう概念の選択自体が、とても知覚運動系的ではないでしょうか?

だから、それらを完全に形式的なロジックにするには、図形や(ユークリッドの)運動、角度や長さの比較(図形の重ね合わせ)といった物事を、完全にユークリッド幾何的に作り込まなければならない。そしてそうだとすれば、ピタゴラスの定理はかなりトートロジー的になってしまう。

これは深刻な問題です。というのも、そもそも今考えているような種類の「正しさ」が、対象や現象に基づいた状況設定をした後の議論の正しさ●●●●●●●●であるならば、その普遍性とは一体何を意味するのかわからなくなってくるからです。問いたいのは「正しさの普遍性」です。でも、その正しさは対象・現象の選択と状況設定の後の●●の正しさです。それは設定の選択によっては(非ユークリッド幾何学においてそうであるように)正しくないこともあり、逆に正しかったとしてもほとんど同語反復的になってしまう。

重要な(そしてもっとも学問的に興味深い)部分はすべて対象・現象の選択や状況設定などの人間的興味に押し付けて、その後の議論に出てくる表層的で形式的な部分にしか普遍性を担保できる正しさがないのだとしたら、そんな「正しさの普遍性」にどんな意味があるというのでしょうか?

私はそのことを見越して「ピタゴラスの定理はそれが成り立つ文脈や背景があり、それをどんな宇宙人も自然と思うかどうかは明らかでない」と答えていたわけではありません。しかし、論理に基づいた「ピュアな正しさ」という文脈でその普遍性を問うと、どうしてもうまく行かない。

ここで起こっていることは、かなり脱構築に近いことであるように思います(私はこのあたりは専門外ですし、あまりよくはわかりませんが)。普遍的であるか否かを問うために「正しさ」の概念を「対象や現象」から浄化すればするほど、それはそれだけ自明になっていく(よって、普遍性を問うこと自体が無意味になっていく)。ここで起こっているのは、このようなことに思われます。

無限が絡むと怪しくなってくる

というわけで、数学の「正しさの普遍性」を問題にする上では、どうしても「対象・現象の普遍性」、すなわち対象・状況の選択や現象の切り取り方の選択の普遍性の問題を切り離すことができないということがわかりました。すなわち、「数学の正しさは普遍的だ」というテキストの中に、すでに人間的な知覚運動系・身体性に依拠した対象・現象の選択・切り取りという内容が内包されていて、自己矛盾を起こしているわけです。

だから、「ピタゴラスの定理の正しさは変わりませんよね?」という東さんの問いに対して私が述べた「ピタゴラスの定理はそれが成り立つ文脈や背景があり、それをどんな宇宙人も自然と思うかどうかは明らかでない」という返答は、一見チグハグな印象もあったにせよ、結局はそれほど的外れなものではなかった可能性も出てきました。

しかし、これは東さんが(おそらくその場の思いつきで)「ピタゴラスの定理」という少々数学的にも高級な定理を例として挙げたからで、東さんの問いの本質はそんなところにあったわけではない、という解釈も可能です。ピタゴラスの定理ではなくて、他の定理だったらどうでしょうか?

例えば「$${7}$$は素数である」はどうでしょうか。これは確かにどんな宇宙人とも共通の数学的基盤として持っている部分に十分収まっていると思います。どんなに遠くの宇宙に住んでいる宇宙人だって「$${91}$$は素数である」とは言わないことでしょう。(でも、もし東さんの質問が「$${7}$$は素数であることは変わりませんよね?」だったら、私も単に賛同するばかりであまり議論は深まらなかったことでしょう。)

では、もう少し難しい初等整数論はどうでしょうか?例えば、フェルマーの最終定理の$${n=4}$$の場合

$${a,b,c\in\mathbb{Z},\ a^4+b^4=c^4\ \Longrightarrow\ abc=0}$$

はどうでしょう?

この場合問題になるのは、いわゆる「無限降下法」です。

無限降下法の原理.自然数の真に減少する無限減少列は存在しない。

これは数学的帰納法の原理の言い換えのようなものですから、もちろん形式的には自然数論の公理と思うこともできるでしょうし、自然数全体が整列集合であることが保証されている状況ならば、単にその帰結ということになります。そういう意味では、これは整数論のもっとも基本的な(無限を扱う上での)原理ということになります。自然数という体系はまさに、この原理が成立するように構築されていると言っても過言ではないでしょう。

ここで問題になっている事柄は、かなりの程度「ロジック」の問題に近いという印象を持たれる人も多いと思います。そして、それが論理の問題であれば、その正しさは無制限であり絶対的であり永遠であると思われることでしょう。これが数学的にはあくまでも「公理」的な(その意味では規約的な)ファクトだとしても、その「正しさ」自体は何も揺らがないだろう、と思われると思います。少なくとも、この原理の自然性はピタゴラスの定理における三角形の幾何学という現象性とは全然根源性のレベルが異なる問題であることは確かです。

それを踏まえて、改めて考えましょう。この原理が自然だと思われる根拠は何でしょうか?自然数とは$${1}$$から始まって$${1}$$ずつたされる(次々と後続する)ことで構成され、それが自然数のすべてであるという自然数の構築の仕方は、まさに無限降下法の原理が成立するような状況とするように作り込まれた体系です。それは確かに「自然」ですが、そこに人間的な「現象の選択」は一切入り込んでいないと言えるでしょうか?言えるとしたら、その根拠は何ですか?

もしそこにこれといって絶対性を支持する根拠がないのだとしたら、ピタゴラスの定理がほとんど自明になってしまうまでにユークリッド的な平坦な平面幾何学を人間の身体性に依拠して構築することと、無限降下法の原理が成立するように自然数の無限体系を構築することとの間に、どのような本質的な違いがあるというのでしょうか?もしかしたら、非ユークリッド幾何学のようなnon-standardな自然数体系(スコーレムによるPAの超準モデルのような?)の方が自然に感じられる身体性をもつ宇宙人もいるかもしれません。

確かにピタゴラスの定理に現れたような「線分量としての実数」に比べると、そこには人間の視覚による知覚運動系・身体性の影響はとても少なくと思われます。それは「ロジック」的な永遠的真理にとても近いようにも思われます。しかしそうはいっても、それが「人間の知覚運動系とは一切関係ない」「現象の選択によるものではない」と主張するなら、何らかの意味でその「証明」が必要なのではないでしょうか?その「証明」は数学の証明とは種類が異なるものだろうから、単にまだ我々はそのような方法を知らないだけかもしれません。しかし、なんらかの妥当な根拠でもない限り、これは人間とは関係のない絶対的な正しさであるなどとは言えないのではないでしょうか。

「無限」のアンセルムス的普遍性

無限降下法の原理は数学の各所に使われています。例えば、初等整数論ではユークリッドの互除法というアルゴリズムの停止問題に本質的に使われています。ユークリッドの互除法が停止するからこそ素因数分解は一意的であり、そこから現代数学のさまざまに高級な理論に向かっていきます。ユークリッド互除法を使わなくても素因数分解の一意性は証明できますが、例えば集合論的議論(イデアル論とか)に依拠するなら、もっとハードな無限性公理を用意しなければならないでしょう。

それどころか、現代数学においてはもっと途方もなく強力な無限に関する公理を使わなければなりません。現代数学における「普通の枠組み」は、SGA4によれば「ZFC+到達不可能基数に関するGrothendieckの公理」です。$${0}$$でない可換環$${A}$$のスペクトラム$${\mathrm{Spec}\,A}$$が点をもつ(空集合じゃない)には選択公理が必要です。無限性公理は現代におけるアンセルムス的普遍実在論の根拠なのです。だとすれば、その普遍性というのは「神の存在」の普遍性です。

結局、数学の正しさにおける普遍性というのは、とても限定的な部分にしか通用しないのではないか?基本的に、無限が絡むと怪しくなってくるのではないか?無限が絡んでくると、我々は必ず何らかの規約に基づいて議論しなければなりません。なぜなら、無限が実際そこにいる●●●●●という現象を切り取ってくることはできないからです。

そして、数学におけるほとんどの深い議論や事実は、どれも無限が何らかの形で絡んだものばかりです。ですから、数学のメジャーな部分は手放しで「普遍的だ」とは言い切れない。もしかしたら、数学の正しさというのも、結局は事実的な正しさなのでありその事実性の割合が、他の現象科学に比べて極端に低いというだけのことだけかもしれない。真偽のほどは置いておいても、そういう議論だって可能なはずです。

無限が絡んだところまで全部含めて、数学的現象には選択の余地なく絶対的な普遍性があるとするのは、どう考えても言い過ぎではないか?東さんの問いかけが、このような論点にまで私を導くものであった可能性は高いと思いますし、私もそのレベルまですぐに昇っていって議論を続けることができていればと悔やまれます。

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