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偽カマンベールチーズと現代数学

「数学でどのような研究をしているのですか?」と質問されることは多い。その度ごとに死ぬる思いだ。

なぜ、現代数学は説明しづらいのか?抽象的すぎるから?確かに。しかし、それ以上に、身近な事物を使って説明できないという事実が決定的だ。抽象的でもそれなりに身の回りのものと少しでも関係があれば、そこから落ち着いて話を紡ぎ出すことができる。しかし、数学ではそれすら難しい。リジッド幾何学の定理なんて、どうやって説明しますか?

もうずいぶん前にことになるが、フェイスブック上で一つの実験を試みたことがあった。それは、そのときちょっとやっていた数学の仕事を徹底的にチーズに喩えて説明したらどうなるか?というのもだ、結果は見事に滑稽なことになったが、それなりに好評であった。

そう!好評だったのだ!好評だったということが、ここでは重要だ。なにしろそれを読んだ人たちが、私の研究の内容に興味をもったからだ。そういう意味では、あの文章は成功だった。

ここに当時の文章を(少々手直しして)開陳しようと思う。

2012年8月14日の日記(@オースティン)

…1950年代にイタリア人数学者Severiが次のような予想を立てた。

●射影平面に同相な複素曲面は射影平面だけであろう。

このように数学の専門用語をバリバリ使うと読み手が減るかもしれない。私はそれを恐れる。そこで、用語だけ巧みに日常語にとり替えて、以下文章を続けてみよう。つまりこういうことだ。

●カマンベールチーズのように中身がドロッとしてしているチーズはカマンベールチーズだけであろう。

当時この予想がどのくらい信じられたのかは定かではない。しかし、1970年代後半になって、なんとこれが正しいことが証明されたのである。その証明の過程で、カマンベールチーズにとてもよく似ていながら、カマンベールチーズとは異なるチーズが構想され「偽カマンベールチーズ」と命名された。偽カマンベールチーズはカマンベールチーズと瓜二つであるが、カマンベールチーズではない。カマンベールチーズ特有のアンモニア臭がないからである。

ドロッとしているのにアンモニア臭がない。当時、そのようなチーズが本当に存在するのかどうか、人々の多くは疑いの目を向けていた。しかし、1979年にMumfordという人がそのようなチーズを発見してしまったのである。「Mumfordの偽カマンベールチーズ」と名付けられたそのチーズは、その製造法が奇跡的に美しく天才的であったため、以来多くの人々の瞠目の的となってきた。

私は修士の学生のとき偽カマンベールチーズには興味を持ったが、あまりチーズが好きではなかった。何しろ、カマンベールチーズのあのアンモニア臭が苦手だったからだ。とは言っても、ブリーを研究する気にもなれなかった。なにしろ、まだロックフォールを知らなかったころである。ゴーダやチェダーに興味を持ったこともあったが、あまり研究らしい研究にはならない。結局、私はチーズの研究ではなく乳製品一般、特にそれらの繊維質が腐って退化していく過程を一般的な視野から研究して修論にすることにした。しかし、修論にほとんど目処がついて多少ヒマになったころ、私はまた偽カマンベールチーズに戻ったのである。そして非常に運のよいことに、さらに二つの偽カマンベールチーズの存在を証明することができた。これでMumford以来、知られている偽カマンベールチーズは合計で3個ということになった。これが1995年くらいの状況。

それ以来、私は時々偽カマンベールチーズの研究に戻ることはあったが、これを本業とすることはできるだけ避けた。なにしろ偽カマンベールチーズを探すのは難しい。それに偽カマンベールチーズがグリュエールやエメンタールに似た性質を持っていることがわかっても、あまり価値のある仕事とは思えなかった。そもそも私はチーズの話は嫌いなのだ。私の先生は大のチーズ好きであったから、私も多少は勉強させられたのであったが、結局あまり好きにはなれなかった。ゴルゴンゾーラに出会ったときは、さすがに衝撃を受けたが、その感動もあまり長続きはしない。ロックフォールを知るようになってからは多少その路線の研究を進めて、いくつか論文にはなったが、やはり複雑すぎてよくわからない。それよりはモツァレッラやマスカルポーネチーズのように簡単そうに見えながら、実はその中にあまり知られていない可愛らしい性質があることを見出して、胸をときめかせたものである。あぁ、それなのに!私は不本意ながら多くの人々に偽カマンベールチーズの専門家と思われてしまっている(本当は断じて違う!)。韓国のKeumさんが新しい偽カマンベールチーズを発見したときも、彼はまず最初に私に論文を送ってきた。確かに彼の偽カマンベールチーズは面白かった。それは不思議な対称性を持っていたからである。

そもそも私はチーズが嫌いだ!だからあまりチーズの話はしたくないのである。しかし専門用語をチーズ用語に〈巧みに〉とり替えて文章を始めてしまった以上、不本意ながらこの調子で話を進めなければならない。

結局、現在に至っても偽カマンベールチーズが一体なんなのか、まだよくわかってはいないのだと思う。それは確かにチーズなのであるが、むしろフォアグラと思った方がよいのかもしれない。実際、Mumfordの製造法にはそれを臭わせる何かがある。このように、その正体が未だはっきりしない「偽カマンベールチーズ」であるが、つい最近これが〈分類〉されるという大仕事がなされた。Prasadさんという非常に有名で老練な研究者からその論文が送られてきたとき、私は大変驚いた。そんなことが可能だったとは!現在では偽カマンベールチーズが(具体的な製造法は確立されてないにしても)何種類あるのか判明している。それは(これまた驚いたことに)ちょうど100種類だったのである!

しかし、これで話は終らない(こんなチーズ臭い話はそろそろ終わりにしたい)。実は何を隠そう、Danielも〈隠れ偽カマンベールチーズファン〉(←すごい日本語だ)だったのである。今回の彼との共同研究の中で、我々はまたしても偽カマンベールチーズに出会ってしまった。我々が新たに見つけた偽カマンベールチーズは、Mumfordの偽カマンベールチーズと同様の繊維質を持っているが、その中心繊維のホモロジーの位数が7で割り切れるという特殊な性質をもっている。そのため今まで構成されていたものとは顕著に異なっているのだ。かの旧約聖書の『ダニエル書』には7つの頭を持つ獣が出てくるが、それはまさに我々のこの発見を予言していたのに違いない。我々はこの黙示録的偶然に宗教的神秘を感じ、この結果を論文にして発表することにした。仕事の質としては、まぁまぁといったところだと思う。私個人としては人生で3つ目の偽射影平面(そろそろ本来の用語に戻そう)である。気分が悪いはずはない。

とにかく、なんとか結果らしい結果が出て安心している。明後日、帰国の途につき、木曜日に帰国する。

後日談

…さて、以上で「偽カマンベールチーズ」の研究の物語は終わりである。いかがだろうか?

文中に出てくるDanielという人は、私の共同研究者のDaniel Allcock氏である。この論文はその後、東北数学雑誌に掲載された("A fake projective plane via 2-adic uniformization with torsion", D. Allcock, F. Kato, Tohoku Mathematical Journal 69 (2), 221-237)。論文の質はまずまずよい方だったと思う。私は当時はチーズは嫌いだ!と叫んでいたが、実は昔からチーズは好きな方だった。でも、ちょうどこの頃、もう一人の親しい共同研究者であるオランダ在住のGCという人が、私のすぐ隣で中味がトロトロ茶色のカマンベールチーズを食べ始めて、その臭さに飛び上がって驚き、部屋の外に思わず這いつくばるようにして息も絶え絶えになって逃げたという猛烈な経験をしたため、一時的にチーズトラウマになっていたのであった(そして、そのトラウマのために、このような文章が生まれたのである)。

機会があれば、今度は数学をワインに喩えた物語を書きたいと思う。

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