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亡き祖母の姿

写真を撮る時に、ちょっと被写体を横にズラしたりするのは、とてもズルいと思うのです。撮(取)りたいものがあったら、真正面から撮(取)りたいと思って、取(撮)ろうとするのが、心としては普通なんじゃないかなと。でも、人とのつながりを真正面から行くと避けられてしまうから、そっとメッセージを送ったりする。それが、このズラしてみるって行為かと思うのですが、自分だけの写真にはそういう小細工は不要なんじゃないかなぁと、ふと思ったりもします。でもなんで、これは横にズラしたんでしょうね・・・?

祖母は昔の女性にしては珍しく、プカプカといつも一人タバコを吸っていました。親戚の誰も吸わないのに、美味しいとも言わずに若い頃からの習慣となっていたタバコをどんな時でも吸い続けていた。なんとも思っていなかったそんな祖母の姿が、いろいろな人と出会って、他の家族の話を聞いてみると、あっそれってあんまり普通じゃないんだ?ということに気づいた。そんな気づいた時には、私も恋愛と反抗期と勝手な人生のどん底のようなものも味わってしまっていて、さて、おいそれと

「おい、元気なんか?」

と、聞いてくる祖母に対して、もう何か無防備に全てを話してしまってはいけないと感じるような、どこかもう甘えてはいけない?、いや、私が何かうまく甘えられなくなってしまったような、そんな距離感があって、

「うん、元気だよ。おばあちゃんは?」

と、まるで他人行儀な言葉を一言二言交わすたんびに、当たり前だけど、もう何を話していたのか関係なくキャッキャと笑い合っていたあの頃には、戻りようがない時間の残酷さってのを感じたりも。

そんな、空いてしまった距離なんてのは、単純に近寄ってみたところで、こんなに皺皺だったっけ?と、"モノ化"してよく見えるだけで、全く埋まるもんじゃなくて、

普段見ていない、生活の裏側を見てみたところで、何も分かることなんてもなくて。あーこうやって一人でいつも過ごしていたんだと。私にとっては、親戚一同が一瞬集まっているあの時間だけが、祖母の全ての時間だと感じていたけど、365日の中での盆暮れの2〜3日を抜かした三百六十幾日かの祖母は、こうやって生きていたのかと、わかったところで、、、そして、距離を埋めようとしても、なんとも埋めようもないままに、さようならとなった。



これは、別に悲しいお話でもなんでもなくて、気持ちとしては、幼い頃に祖母とは楽しい時期を一緒に過ごしすぎてしまって、もう使い果たしちゃったようで、もう残っていなかったのかなと。だからこそ、会えない今が実にちょうどいいと言っちゃあ、あれなんですが、今はこうやって灰皿を手に取って見た時に、とっても距離は遠いんだけど、とっても近くで、ふとお話ができるような気がしています。

  


( こんな、しっぽりしちゃっていいのかしら?)

こんな話って本当に照れ臭いから、きっと被写体をそっと"ズラ"すんでしょうね。


ランドリー・・・

どこか懐かしさを感じる、帰る場所としての「 写真 」「 道具たち 」を扱っております。

 [ ものがたり ] 盆暮れ正月となれば、何かをするためというわけでもなく、とりあえず帰ろうとする。でも「 帰ってきた 」と、心から深くそう感じられる場所へ、ふと帰りたいと思って振り返った時には、いつの間にか、もうその場所はどこにも無いと気づくこともある。そんな時に、何気なく撮っていた一枚の写真がその役割を果たす時があるように、家のどこかでなにか見覚えのあるような道具たちも、心の帰れる場所があるのでは?と思ったのでした。みなさんにとっての「ただいま」を、感じてもらえる体験となれたらと思います。



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