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ハレとケ
この頃フェイクニュースと政治について考えています。
人はなぜ、危ういものに惹かれてしまうのか。
なぜ善人が誤った選択をしてしまうのか。
ぐるぐる考えたことを整理するためにメモを残しておきたいと思います。
なぜ善人が誤った選択をしてしまうのか。
人は抱えている自身の問題や課題を他人や社会に反映させてしまいがちだからなのでは、と思いました。
自分が抱えている問題って少しでも早くすっきりさっぱり解決したい。
だから自分の抱えている不安やモヤモヤを(自覚があることもないことも)すっきりさっぱり解決してくれそうな人を見つけると盲目的に入れ込んでしまうのかもしれません。
すっきりさっぱりした、その瞬間の爽快感と言ったら。それはそれは気分の良いものです。
めんどくさくてつまらなくて変わり映えしないことこそ大事なことだと私は思います。
白黒はっきりしないものを抱えて、なんとかやりくりして、帳尻合わせて、その繰り返しが「生活」なんだと思うのです。
柳田國男さんが「褻(ケ)」って書かれてたものなんだと思うのです。
実は現実の生活にだって「褻」が積み重なって「晴れ」になる瞬間があります。
でもこれって、なかなか来ないし、いつ来るか分からないですよね。「褻」が続くのはつまらない。
つまらないだけならいい、ちょっとキツかったりする。「晴れ」が欲しくなるんです。昔の人はお祭りを定期的にすることで発散してたんだと思います。
私はキラキラしたときめきをちょっとした非日常で、例えば演劇や映像作品を見ることで味わったっていいじゃない、と思ってます。
人によってはゲームだったり読書だったり好きなアーティストのライブだったりするかもしれません。
毎日がんばってるんだから、それくらいいいじゃない。
ただ、そのキラキラのときめきを毎日の生活の中でも「感じなくては」「実現させなくては」って信じ込んでしまうのはまずいのかなあと思います。
非日常の体験が日常のルールに侵食しているのは危険です。
ドキドキ、キラキラしているものって必ずしも良いものなわけではないです。
楽しくて気持ち良くても、後から何か代償を支払わなくてはいけないものだったりします。
人や言葉も。華やかで感動的な言葉って胸に響きますけど、その人の本質はその人の行動でしか判断できない私はと思っています。
現代はそういう激しい煌めきを過剰に大切に思う人が老若男女関係なく多いように感じています。
その煌めきに少しでも触れるために、過激な発言や主張に簡単に惹かれて、引き込まれてしまうのかもしれません。
時々怖くなります。もしかしたら私もそうなのかも、とも。
「晴れと褻」の良い塩梅ってどうやって身につけていくものなのでしょうね。
なんでもないことを繰り返す日々を愛おしめるようになりたいものです。