再現された「団地」のアパートの一室にて。 誰かの記憶が入ってくる。彼誰時、自動反応で泣いてるセリザワ。この時代の人はきっと皆こうであろう。涙を拭うセリザワ、童子のようである。 am4時、コップの水、飲み干す。 なんで?という質問は今は野暮ということになっている。「それ」は「それ」だからだ。時間稼ぎがもうできない。当然のように交感している。 過疎。公園のステージのようになってるところ、カリンバを奏でているセリザワ。図書館から本を持って出てくるサクラガワ。音に聴き入って近づい
「明日死ぬとして何がしたい?」って常套問があるが。 で「いつもと同じに過ごしたい」っていう人を理解できなかった。そういう人は光を知っていて(肉体の移行があるというだけ)、すべての準備ができている人ということだったと今はわかる。若い時分にはそれをわかることはできない。すべてを果たしてからでないとそこにはいけない。 『若者たちへ』のnoiseがまさに若いだった。しかし我々の若いとは違う、リニューアルされた若さだとも思った。ぼうりょくが取り払われていて、でもトウセイの圧はあって、
https://note.com/kathy1983/n/n2c546c4d2a56 (⇡に書いた「緘黙的な肉体の劣等感」、「普遍的な人間感覚に乏しい」に関係することです。おそらく4、5チャクラが壊れているか詰まっていたからだと思います。) 人から「なんかかたいね」と言われたり、感動していても無反応・無表情と言われたりすることがあった。(実際、人になにか質問するときの「〜ですか?」の「?」に抑揚がつけられないほど硬かった。)自分でも自覚はあったがコントロール不能だった。
https://note.com/kathy1983/n/n2c546c4d2a56 (⇡に書いた「肉体の防壁のなさ」に関係することです。おそらく1〜3チャクラが壊れているか詰まっていたからだと思います。) ドアを開けて、行ったら帰ってこれなくなるんじゃないかとよく思っていた。帰路で気化して消える気がしていた。宇宙に命綱なしでひたすら彷徨うような、どこを歩いているかが分からなくなる時があった。体の消耗が異常だった。 私は自分が人の形をしているということに違和感があった。
いまさらビートルズ(『The BEATLES Disc1,2 produced by George martin』)きいた。ほんとにいろんな音楽家が影響受けたんだな、と特に音楽通でもない私でも思うことができる。 人間の知性知能は情報処理とか正確に言葉を使うことで、生物の知覚というのは正確にレコードするということだ。(レコードっていうとまぎらわしいが。) 人間の知と生物の知で、抱えきれるはずのない膨大な時代を封したのだ、日出から落日まで、と思った。今には失われた(←悲観で言って
『海辺のカフカ』読了した。 去年、宿曜占星の本読んでたおかげですんなり読めた気がする。(生きながらにして「業」とか「胎」を行き来する、という感じととらえていた。) 私は15歳の頃は私が私であることが何より酷だったのだよな。死ぬことより酷だった。だから死なない(死ねない)気がしていた。 苦しみを説明できない間は(事象をことばでならべたところでその苦しみを再現できない間は?)その苦しみを保持して生きていないといけない。佐伯さんのところでそれを感じた。あの絵(を託すということ
通常の人間が乗り上げることのできる肉体のラインまで乗り上げられない、と感じざるを得ないケースに打ち当たることがある。それは体力、とはまた違った肉体の問題だ。 自分で自分がどういったふうに物を見ているのか、というのは私はあまりはっきりとわからない。だが、自分には「見ているもの」と「潜在的に見ているもの」とがあるように思う。そして、そういうふうに見ている人とそうでない人とがいて、そうでない人と仕事などでやり合わなくてはならない時、どうしても何かズタズタになるというか、打ちの
前に書いた記事の続きというか展開したようなもの。 私は体の内側がストームしていて、外側が無であるということが多い。無であるというか、無の時と、体の外側が社会性そのものって時とがあって、体の外側が社会性の時は善性にまとわれているというイメージ。悪性はおもに体内に自動的に溜め込まれるシステムのようだ。 私は暴言を吐く、ということができない。口から出せない、というか。口から出るまでの間にその形態が変わってしまう。なんかそういう呪いのようなものにかかっているという感じである
ある作家どうしの対談を読んでいたのだが、その作家は自分の感覚を目の細かい方眼紙のごとくミッチリと言葉に置いていっていた。私はそれを読んでいて明晰と感じ、その作家は自分のことを「私は言葉を使い過ぎているのかもしれない」と言っていた。 私は言葉を使ってものを書いてきてはいるが、今もげんに書いているが、自分の感じていることを言葉になおすのは苦手である。 感じたものは自分とその事象との間で宙づりになっている。 それを言葉になおすには、もしくはそれが言葉になるのには時間がかか
建設的な人間だったら、段階を経て行動を一つ一つ起こすことができると思うが、私はたぶん建設的ではない方の人間なので、段階を経た行動をとってきたためしがなかったと思う。 段階を経て行動を一つ一つ起こすことができる人は、その行動一つに対して一つの理由を説明することができることと思う。私の場合は、(周りからは突発的と見えるであろう行動に対する)理由が一つではない。いくつもあるので説明するのがむずかしい。「いくつも」というか、この理由がこっちの理由に縒り合わさって、などとなっている
クセのある鳴き方のウグイス
わたしが肉体に関してひらめきを感じた本について(レビューでもなければ感想でもない覚え書きのようなもの) 『くんずほぐれつ(齋藤孝 著)』 わたしはこの本を読みながら「外から見た体」というのを感じた。ここにでてくる体は当時のわたしにとって明るいもの、だった。自分が今その体をもっていなくても、感じることができれば倣うことができる。ただこの明るさを信じた。 『HUNTER×HUNTER 6巻(冨樫義博 著)』 念の基礎の「練」のところに惹かれた。「纏」みたいにして、居
わたしは他人から「いやされる」とか「やさしい」とか言われることが往々にしてあった。わたしはその人たちをいやそうとも思ってないし、やさしくしているわけでもない。わたしが人を脅かす体をもっていないからそう見えるのだろう。傷付きたくない人間から見たらわたしの体は都合がいいのだ。 わたしは蓄積されたもの(ストレスその他)が外に発されない、発しにくい体をしていて、その蓄積されたものは、鈍く、腐って、風化して、それで自分の身の一部もおそらく風化している。 体から発しているものが何も
「時間切れ」で書いた、肉体コンプレックスのバリエーションを自分で分かる範囲であげてみる。今は解消している部分もあれば、未だイマイチという部分もある。 ・いろいろなものが全て自分のほうに流れ込んでくる、肉体の防壁の無さ ・ため込む量は多いけど、発することができないという、緘黙的な肉体の劣等感 ・意識が感覚を上回っていて、普遍的な人間感覚に乏しい こんな感じかと思う。 肉体の認識の無さと、表現の無さと、感覚の無さってことだろうか。 そういえば、村上春樹の
私はハイ&ロー タイプの人間で、ハイ時は力がおそらく出過ぎていて、空間からはみだしている。ロー時は自分が存在していないみたいに感じる。 昔は、体の外壁の浸透圧が狂っている、みたいな納得の仕方を自分の中でしていた。 私は自分に対して人の形をしているという認識がない、もしくは薄いのだと思う。 もちろん鏡を見れば、「そうだよね(これだったよね)」と思うけれど。(幼少期は自分の「姿」に違和感があった。) 大人になったら人として処理しないとならない様々なタスクなどが出てくるの
「だいじょうぶよお、若いから!」って自分が若いころに中年から言われた時には、またかよ、とか、結局その言い方かよ、とか思っていた。 とはいえ自分もけっこうな齢になって若い人に「まあ若いしな・・・」などと思ってたりしている。 若いときは考えること(考える題材、タイトル)を選ぶのは不可能だった。ただなだれ込んできたものを処理するというか、意図せずまとわりついてきたものを拭ってひとまず平静を取り戻す、というのにその日を使い果たしていた。 若いときはただ生きるのに渾身だったのだ