三国志から見る中国語の奥深さと中山靖王から劉備への系譜の繋がり
久々に陳寿著の「三国志」(原文)を読んでいます。劉備のところ《三國志 蜀書二 先主傳》で彼の人となりを記述する短い文があるのですが、これを改めて読んで中国語の奥深さに驚きました。
たったこれだけの文ですが、劉備の人となりがくっきりと浮かんでくる、改めて中国語ってすごいなと。
日本語訳にすると文章が長くなってしまいますが、これを読んだだけでも劉備がどんな人だったのかが自分の中でイメージできるのではないでしょうか?
私はこれを読んで、漢王朝の高祖劉邦の姿が思い浮かびました。無論全く同じような性格ではないのですが、「似た」雰囲気をなんだか感じるんですね。劉邦も秦の法を犯して一般社会で暮らしていけなくなり、彼を慕って付いてきた人達を束ねて山に身を隠し、盗賊まがいのことをやっていました。この人の為なら何かをしたい、そんなところが両人に共通しているところな気がするんですよね。
劉備自体三国志の中では漢王朝の中山靖王劉勝の末裔だとされていますが、中国の歴史を見ていると皇族であっても劉備のように自分の生活すらままならないほど貧しい暮らしを送っている皇族はたくさんいます。
劉備の父劉弘は早くに死去してしまった為、母親が草履や敷物を作って売って生計を立てていたわけですが、それらを作る原料すら買えなかったので、材料費のかからない草などを使用して作っていたようです。当然それらは価格が安いものである為、どれだけ数を売ろうが大して家計の助けにはならず、母子ともに相当苦労したはずです。
中山靖王の父は漢王朝の皇帝景帝で、彼自身は景帝の庶子(正妻以外の女性が産んだ子供、主に妾が産んだ子供を指すことが多い)でした。時代的には景帝時代に起こった「呉楚七国の乱」(各地の皇族が中央政府を打倒しようと起こした反乱)が平定されてそんなに時間が経っていない時代。彼は他の兄弟同様、中央政府に2度と歯向かえないよう王朝内で多方面から「嫌がらせ」を受ける立場でした。
気性が荒く歯向かうものをすぐに処刑してしまうような武帝に対して、誰も不平不満を言えない中、諸侯の王が武帝が催した食事会に集まり皆の前で泣いたわけです。不思議に思った武帝(劉勝の兄)がどうしたのかと聞くと、「私は国に忠義を尽くし愛し、真面目に奉仕しているのに、あらゆる方面から言われようのない讒言やいじめに悩まされており、それを思うと自然と涙が流れてしまうのです」と答えたのでした。
劉勝の様子を見て流石に武帝もちょっとやり過ぎたかなと思ったのでしょうか、すぐに諸侯とて王であり我々劉一族である、むやみやたらに諸侯を貶めたり讒言することなきよう臣下たちに話をしたと言われています。
当時武帝に対して誰も怖くて提言できなかったことを、劉勝が涙ながらに訴え、自分達への風当たりを低減してくれたことで、多くの人が彼に一目置くようになったと言われています。
このエピソードからもわかるように、劉備は祖先の中山靖王劉勝のような「泣き」の共通のエピソードがあり(劉備が荊州の劉表に身を寄せている時の、髀肉(ひにく) の 嘆(たん)が有名)ますし、音楽が大好きな点もやっぱり劉勝の遺伝なのかなと思ってしまいますね。
ただ、史記には劉勝が音楽と女性に溺れる話が掲載されていて、政務を省みるような人物ではなかったようなエピソードがありますし、子作りに異常に熱心(?)で、子供は何と120人強いたそうです。ほんまかいな。ただ、その子供の多さが原因で、彼の家系はどんどん先細っていくことになります。
当時武帝が諸藩の勢力を削ぐために制定した法律では、諸侯の子供(男)が生まれると、その領土内で領土を必ず分割して分け与えなければいけなかったので(呉楚七国の乱のような謀反を防ぐため)、男の子が20名もいた劉勝の領土は20も分割することになり、家としての力を自分で削いでしまった感がありますね。
また、武帝が即位して5年後、劉勝の11人の息子が漢王朝の祖先を祀る廟に納める黄金を偽物でやってしまったことが発覚し、爵位を剥奪されてしまいました。劉勝の20人ほどの子供(男)達のうち涿州(劉備故里)あたりに住み着いたのが劉貞(一応「侯」となっているので爵位はあったようです)で、その子供が劉備の祖父劉雄、そして父の劉弘と繋がっていきます。劉備は皇族ではありながらも、祖先の素行により家が没落し非常に貧しかったんですね。
ということで劉備の話から、ご先祖様の劉勝の話まで話が広がってしまいましたが、今回はこんなところで。では。