サイトスペシフィックな省察
田村友一郎|テイストレス
「やられた!」 2021年6月13:00開演の田村友一郎(以下:田村)による「テイストレス|TASTELESS」開始数分で心中での叫び。会場に流れるBGM(導入音楽?)の巧さに、先ず心を掴まれる。心地よい音響と、これからの世界へ誘われる期待と「不安」。コロナ禍ゆえの入場規制、限られた座席構成など、進行するにつれて、その悪条件や現状すべてを構成側に取り込んだ「現代アート」としてのパフォーミングアーツ作品の姿が明らかになり、思考と演出が細部にまで行き届いた傑作であった。作者である田村のCREDITは「構成」、パフォーマーとしての出演者は2名、企画・制作、ドラマツゥルク、照明、サウンドデザイン、映像など主要メンバーは上記を参照のこと(※当初は2020年2月29日予定であったが、延期されていた)。
〈舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点〉劇場実験型公募研究Ⅱ「The Waiting Grounds――舞台芸術と劇場の現在を巡る領域横断的試み」の研究プロジェクト。(2021年度より大学名称変更された)京都芸術大学の<大学開学30周年記念|劇場20周年記念公演>として京都芸術大学 舞台芸術研究センター主催、京都芸術劇場 春秋座で実施された。チケットは自由席、一般1000円、学生無料(要事前予約)。
上記を引用したのには訳がある。やられた!と思ったのは、<大学開学30周年記念|劇場20周年記念公演>の基調講演の映像背景とともに、アーティストの荒木悠氏が現れて自己紹介と自作について和やかに語り始めた冒頭の時間。いや、待て、開演前のアナウンスでは上演時間は40分ほど、基調講演??そんな案内はない....。田村友一郎ともあろう抜かりない作家がこんな構成を許すはずがない、とすれば、これは演出だ。そう、ちょっと演技くさい話し方、アメリカの日本人(荒木氏は親の帯同で高校生時代を南部オースティンで過ごした)としてアメリカの学校文化、スポーツの話からアメフト、チューインガムに話を繋げた瞬間、その演出力に感嘆した。その後に荒木氏は小セリでゆっくりと消えてゆき、J.G.Ballardからの引用が日本語字幕とデジタル加工で間延びしたネイティブ米語で語られる。この引用が、作品を導入から終演までに通底したメッセージであるとは最初わからず、米語を使うなんてスノッブだな、と勘ぐる次第。SF通ではない私には、バラード流に「世界はすでに終わった。無限に再生しているだけ。」なんてうそぶかれてもな、という受け止めだった。
Not that the world is about to "end". The implication is rather it has already ended and regenerated itself an infinite number of times, and that the only remaining question is what to do with ourselves in the meantime. J.G.Ballard
『テイストレス』を支えるのは、チューイングガムのドラマトゥルギーである。....チューイングガムは、その名が示す通り、人が「咀嚼(チューイン)」することにより存在するといえるだろう。.....ある充実から、ある空虚へ進行していくドラマトゥルギーが、第一にチューイングガムを特徴づける。本作の組み立ては、そんなチューイングガムの特徴をベースに構成している。 ー前原拓哉(ドラマトゥルグ)ー当日配布資料より引用
SF的壮大な世界観からチューイングガムにどのように接続するのか? 現代の20代以下は、もはやチューイングガム=支配者アメリカが被さることはないかもしれない。だが、昭和世代には能天気なジャズやロック、笑顔でガムをチューイングする映像は、ある種の世界観の「残像」として残っている。さて、冒頭からしっかり接続されていたと気がついたのは後半を過ぎてから。チューイングガムの要素を読み解きアダプトし、ある土地の記憶や歴史を掘り起こしでその断片を多層化していく手法がリアルタイムで可視化された。チラシやHPでの紹介文通りの「従来の美術の領域にとらわれない、独自の省察の形式を用いて現実と虚構を交差させる」表現であった。
荒木氏の高校時代の経験とその後のアーティストとしての活動は、ある種特別であるが、視線を引いてみれば、世界一の大国への憧れと従属、敗戦国と戦勝国、欧米文化と日本人など、今を生きる日本人ほぼ全ての共通項ともなる物語であることが理解されてくる。彼の体験話は日本人なら頷首の連続だ。我々は一昔前の彼の辛い(荒木氏は「暗黒」と表現)体験をチューイングガムを切り口に、我々の近しい歴史や意識、事象や事物に巧みに繋げていく「多層的」な物語の構築により、40分間で体験し、視線のベクトルを自身を含めたより多方向へ進めていく。
アポロやスペースシャトルのアメリカ、超大国を象徴する宇宙計画が、現在では中国にその覇権を脅かされていることを我々はとうに知っている。日本人の米国高校生活を通じて語られたアメリカンドリームの断片で、実力主義、自由、富と権力ある強者の国という見果てぬ夢が、戦後日本から(現在まで継続されている)「強者たちの模倣」と滑稽なほど重なる。誰一人いない荒野ー入場制限で無人の一階席の見立てーを彷徨うフットボールプレイヤー兼宇宙飛行士が、味のぬけた口いっぱいのガムを噛みながら健気に語るパフォーマンスは、わが日本国の今を表象する。日本の高度成長期と重なる、強き大国アメリカの象徴として最高のパフォーマーであったレーガン大統領はフットボール選手であり、ハリウッド俳優でもあったという見事な符号、ドラマトゥルグが光るところだ。私の人生とも同時代的に重なるテーマと表象に、苦笑いと冷や汗。田村は過去作『NIGHTLESS』(2010年〜)、『裏切りの海 / Milky Bay』(2016年)などで日本の戦後やメディアの歴史を身体や体験、虚構を重層させた独自の世界観で表現しているが、本作もその流れである。しかし、私の「やられた!」はそれだけではない。
なぜか劇場の詳細は英文ページしか見つけられず(2021年7月にHPリニューアル予定)、ビデオ紹介もあるので是非ご覧いただきたい。表題にサイトスペシフィックと力説した理由が分かるだろう。「本格劇場」と誇るだけあって、歌舞伎の花道、せり、桟敷などすべてが整い、古典から現代劇まで何でも最高レベルで上演可能な設備とスタッフを大学で持ち、しかも進化している。今回は初めて2階席に座り、天井部分の意匠をじっくり見たが、まるで法隆寺のような柱と屋根構造を見立てた和の感覚だったのには驚いた。一階席からでは、モダンな歌舞伎劇場としか理解できなかったのだが...。私など三代目猿之助氏の開館記念講演に出向き(....年齢がばれました)、質問までして感動したほどで、大学の各種授業、講座、イベントにも活用されている。特に自慢のまわり舞台、セリ(大小3つ)は、いたずらに多用する現代劇も多数見たが、今回は必然を生み出した活用であった。40分という短時間での場面展開と意識の覚醒、時間のシャッフルを大小のセリを巧く使った流れを組み立て、さらに、注意してみないとわからないくらいゆっくりと、まわり舞台も終盤に入る頃に動いていたのだ!それも、途中で回転方向が変わっている!その速度の遅さは冒頭の米語ナレーションのそれと呼応する。アポロの月面着陸歩行とあの熱狂の時代の空気とも。童顔で細身のフットボール選手兼宇宙飛行士氏は、まわり舞台に乗る際に少しぐらついた、が、これは演出ではなかろう。ほとんど物としての舞台美術はないが、映像と音響、照明とセリ、無人席などこの劇場ならではの環境と状況、劇場の存在意義という背景まで、この劇場のすべてを飲み込んだ構成をサイトスペシフィックと言わずなんと評せよう。美術家として写真、映像を学んだ田村は、音響や照明、舞台デザインや身体性全域にその感性と技量を発揮し、それぞれの優れたスタッフ、劇場の専任スタッフとのチームプレイも見事で、従来の美術系パフォーマンスとは明らかに一線を引く構成と水準であった。
コロナ規制で観客は1席とばしの2階席のみ、100名もいなかった。映像配信も行われるのかもしれないが、サイトスペシフィックなパフォーミングアーツ作品を同じ空間で同じ時間を共有しながら体験できたことは幸福だった(しかも学生無料!)。2階からフットボール選手兼宇宙飛行士氏の健気な告白を映像と生身のリアルタイムで見下ろし、ゆっくり逆回転するまわり舞台の円世界=環世界を目撃し、縁起にも通じるあらゆるものが交錯し関係していく実相を表出させていく。この事実と虚構の物語性、身体観はその場で時空を共有しないと半分も伝わらないだろう。それほどまでに、精緻にサイト(場)を読み解き、アダプトし、アフォードされた作品であった。
退場時、青リンゴ味のフーセンガムが配布されていた。小さいのに275kcalもある。遠慮して、持って帰る人は少ないようだ。
この作品も、はじめから完成品としてその姿を見せていると捉えてはならない。静かに、小ゼリと共に奈落に消えていくフットボール選手兼宇宙飛行士氏と呼応する私の省察とは....? 私の省察が明らかになった時点で、さらに作品が進化していくのだろう。
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