ポリコレとマスターベーション -『ハーフ・オブ・イット』『ブックスマート』『ロング・ショット』

 2020年に観た映画のベスト5を挙げろと言われたら、この3作品はいずれも入らない。だが、2020年を代表する映画を挙げろと言われたら、この3作品を外すわけにはいかない。「ポリコレ」という略称には、揶揄する響きも含まれるが、この3作は、良し悪しはともかく、作品中にポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)に関する配慮を行き渡らせた作品だと言える。そのことが、作品としての価値を高め、現実世界に影響を与えるとともに、作品そのものを制約している面もある。
 

 「ハーフ~」も「ブック~」も、性的マイノリティの女性が主人公である。両作品に共通するのは、性的・人種的マイノリティとマジョリティ(典型的には白人男性)との軋轢や、マイノリティ側の生きづらさを描くと同時に、マイノリティが、マジョリティを許し、受け入れる過程を描いているということである。マジョリティの側が、寛容さを示して、マイノリティに理解を示すわけではない(そのような描き方は、まさに「ポリコレ」に対する配慮を欠くものといえるだろう)。マイノリティの側に、判断する権限を与える。これが、人物設定やストーリー展開に関わらず、正しさを担保する基盤となっている。
 

 逆に、「ロング~」は、白人で、環境問題を中心に、過激なまでにリベラルな男性が主人公である。彼と恋に落ちる女性大統領候補は、女性であるが故の差別や偏見と闘っている。「ロング~」の主人公の設定が面白いのは、主人公を白人男性に設定しつつ、共感しづらいリベラルという属性を与えている点にある。彼は、環境問題にせよ、女性に対する偏見にせよ、分かりやすい当事者ではないが、当事者以上に没入する人物として描かれる。このような人物は、リベラルの典型であるように思えるが、当事者を主人公にする以上に、作劇の技術が必要であり、その要が、パートナーとのコンビという設定だろう。パートナーの方が、より現実的かつ政治的な判断を下すというねじれも、2人のコンビ仲を強固なものにしている。
 

 「ロング~」の主人公の設定は、リベラル白人男性を皮肉るという側面をもつが、それだけではない。リベラルの本質が、誰かを応援する姿勢にあるということを端的に示しているのである。彼がライフワークとする環境問題が典型である。環境問題一般についていえば、人間は当事者であり、利害関係者でもある。だが、「ロング~」の中で、主人公の立場は、「環境」を応援しているように見える。それは、彼が、政治家としてのパートナーを、スピーチライターとして支える姿と重なる。「ブックスマート」では、主人公たちを応援するマジョリティは、応援する者として、脇に配置される。「ハーフ~」はもう少し巧みで、マイノリティとマジョリティが互いを応援する構図になっているが、個人的には、マイノリティが主人公であることが、作品全体の基盤になっており、支え合いも、主人公の少女の意思や技術に支えられているように見えた。
 

 マイノリティたる当事者を主人公に設定するにせよ、それを応援する側を主人公とするにせよ、両者が組み合わさることで、作品は成り立つ。しかし、もう一つ注目したい点がある。それは、「ブック~」と「ロング~」では、マスターベーションが、物語の中で重要な役割を果たしているということだ。いずれもユーモアでくるんでいる点では共通しているが、「ブック~」では、マスターベーションが、よりオープンで日常的なものとして描かれるのに対し、「ロング~」では、秘匿すべきものとして描かれ、そこからストーリー内の事件に発展し、最後にはオープンなものに変化する。
なぜ、一般的に隠すべき(場合によっては禁止すべき)とされるマスターベーションを、積極的に描くのか。マスターベーションを恥ずべきものと考える偏見を打破する、という意味もあるだろう。しかしそれ以上に、性というものが、他者との交わり以前に、自己完結するものである、自己完結してよいものである、ことを強調するためであるように思われる。自己完結した性的行為の先に、他者との性行為や性的接触がある。これは、性や性的行為に対する唯一の回答ではないが、一つの姿勢だとみなすことができる。
 

 当事者に軸を置くこと、応援する者としてのリベラルに軸を置くこと、そのうえで(多様性を認め)応援し、応援されることが、三つの作品の中で、ある種の正しさとして描かれてきた。同時に、性的な欲望や行為は、自己完結してもよい、あるいは、自己完結した先にこそ、正しい交わりがあることも示唆された。これらの特徴は、決して昨今のポリコレと呼ばれる風潮を反映しているだけではない。弱さや、恥、依存、従属、そこから派生する支配的な男女関係、あるいは性行為をドラマの重要な構成要素としてきたフィクション(映画)を大きく変える可能性を秘めている。その変化が、良いものなのか、良くないものなのか、今はまだ分からない。人物設定に正しさの基盤を置く作品が目立つ一方、やがて(あるいは既に)台詞の一つ、ショットの一つにまで影響は及ぶだろう。より、複雑な「正しさ」がスクリーンの上に表れるのか、観客としては、その変化を楽しむしかない。

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