『影裏』☆☆☆-BL的解釈を超えて

 原作をどのように解釈するか、これは小説の映像化にあたって避けられない課題である。どの場面を使うか、あるいは省略するかといった点も解釈の一部であるが、それ以上に付加した設定や登場人物が、解釈や方向性を分かりやすく示してしまう。本作は、特定の解釈を軸に組み立てたことによる功罪の両方を背負うことになった。
 

 原作で、綾野剛演じる主人公が、松田龍平演じる日浅を追う理由として、同性愛的な部分が強調されることはない。一方で、原作を読むと、単なる友情を超えて、性愛の対象として日浅を見ていたのではないかという解釈は、十分可能である。しかし重要なのは、原作では、最も重要な、なぜ主人公は日浅をそこまでして負うのかという問いかけが、同性愛者であるという前提を置いてもなお分からないまま残されるところにある。一人の人間が、他の一人の人間に魅力を感じ、執着するのか、ということが複雑な謎として残される。
 

 では、映画である本作はどうか。本作では、複数の場面で綾野剛が同性愛者であることが示唆される(明言はされない)。特に新旧のパートナーが登場する場面は、彼らの話し方、服装が、一目で同性愛者やトランスジェンダーと分かるように作られている。本作は、なぜ主人公は執拗に日浅を追うのか、という問いに対して、まず同性として好きだからという答えを差し出す。これによって、複雑であった原作の味は、一定程度損なわれてしまう。また、主人公と日浅の関係を、悪い意味で、安易にBL化して見るように仕向ける効果もある。加えて、新旧のパートナーの設定や外見は、LGBTQに関わる作品が国内でも多く公開される中、類型的であるとの批判は免れないだろう。
 

 だが、本作は、主人公を同性愛者と設定してもなお、主人公がなぜ日浅を追うのかという問いかけを鮮烈なまま維持している。主人公が日浅にキスをして拒まれる場面では、それにより性的志向に対する問答が始まるわけではなく、同じような関係が続く。また、主人公が日浅の影の部分を知る展開では、主人公自身もなぜ日浅を信じることができるのか迷う。映画では、主人公が同性愛者であることは、かなりの程度明らかであるから、そのことだけを理由にはできないのである。つまり、原作では、単なる同僚としての信頼や友情を超えた関係を、同性同士の性愛と捉えて納得することができたが、映画化された本作では、同性愛的感情として捉えてもなお捉えきれない段階で、逆に、日浅の父親がいう信頼がせり上がってくる。
 

 人としての信頼が裏切られることは、親子の絆も壊し、一人の人間として生きていてほしいという気持ちさえ失わせるのか。なぜ主人公は、信頼を破壊されても、日浅に生きてほしいと願うのか、それは同性愛で説明できるのか。本作は、分かりやすい設定を導入しながらも、原作と同じ複雑な問いに立ち戻ることに成功しているように思われる。


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