看板イメージ

古き良き時代の職人といれた看板会社

家族経営の会社の独特な空気

社員全体で6人。
社員の半分を身内でしめている会社だった。
社長と社長の弟、お父さんと何かうまくいってない感じがする。
関係性がぎくしゃくはしているように見えた。

私が勤務させていただいた三年の間にお父さんも
お年をとり、アル中のようにお酒を飲み続けてしまうようになった。
会社の三階をご自宅にしてらしたのだけど、
ふらふらで階下に降りてこれない状態へあっという間だった。
私が退社するときには、ちゃんと話もできず。
普段の生活では、三階に社長や社長の弟が様子を見に行きお世話をする状態になってしまった。

お父さんは、私が入社した当初、ひげをたくわえ、厳しい表情だった。
毎日顔を合わせていると、口数は少ないけど、気にかけて下さってることが
態度から伝わってくる。そんな昔ながらの職人さんだった。

この会社では、主にイベントのディスプレイ(ラジオ関連とか車のブースとか)や設営、店舗サイン(飲食店や夜のお店)、レコードショップのPOPやディスプレイを作っていた。

女子は、力がないから。
という理由でレコードショップのPOP作成が私と一緒に入った女性の
仕事になった。
POPがない時は、看板の文字を切ったり、夜のお店の女の子の絵をトレースしたりもさせてもらった。

レコードショップのPOPは、レコード会社から代理店に発注され、会社に発注依頼が来る。
レコード会社のデザイナーが作った看板デザインを元に店舗の指定サイズにおとした看板を作るものだった。

デザイナーが作ってくれたデザインはあくまで基本形なので横長、縦長、正方形くらいのパターン。これがレーザープリンターで出力した紙で届く。

実際、店舗によっては丸やコの字のような形の看板などイレギュラーもあるのでそれに落とし込んだ原稿を1/10サイズで作る。

パソコンに取り込むなんてことは、まだできなかったので
デザイナーのデザインした原稿をひたすらコピーしてハサミで切り、看板の枠を定規で紙に引いて糊で貼っていく。

1つのCDに100枚超えての発注もあったのでその時は
作る都合も考えて、できるだけ同じ字のサイズで使えないか?
とコピーをひたすらして原稿を作った。

できた原稿は代理店にFAXで送りOKを頂く。

そこから、看板製作開始だ。

まだ、インクジェット出力はメジャーではなかったので、

パネルに紙を貼りつける⇒
装飾や絵(スプレーやペンキなど)を付ける⇒
カッティングシートで文字要素を貼り付ける⇒
アーティスト写真が届いたらパネルに貼る。⇒
アーティスト名、CD名をPIT文字を作り、アーティスト写真のパネルとともに、貼り付ける。
といった順番だった。

3年ここで働いている間にPC全盛期になりやり方が変わっていった。
インクジェット出力されたシートが会社に届き、それをパネルではる。
PIT文字を切って貼るくらいの仕事になってしまった。
加工する手間も減って行ったし単価も下がったようだ。
作る側としても、面白みがなくなっていった。

そして音楽不況。
CDの為の看板の発注もレコード会社から減っていってしまった。

文字を直す職人、社長のお父さん


「文字はこうやって書く」

と自分の書く字をみせてくださった。
ちょうど入社したころにMacやWindowsが世の中に受け入れられだしたときくらいで、パソコンで文字を処理して作りだすということに嘆いていらした。

パソコンでプリントアウトした文字をみては、
赤ペンや赤のダーマトで、
「このラインが正しい」
と、はねやはらい、直線に修正を入れてくれる。

機械が測ってきっちりと出した線とは違う線。
社長のお父さんが長年の経験からこうだと出した線は味がある線で
美しく感じた。

看板を作るので、A3以上の文字を出すことも多々あった。
その時はコピー機で倍率を計算⇒コピー⇒スプレー糊で紙を張り合わせる。
作業をしていた。

コピーを張り合わせているから若干のずれはでる。
そこも、赤をいれてくれる社長のお父さん。
文字に対しての誇りと絶対の美しさに自信を持っておられる姿がかっこよかった。

コピーが出来たら、それをプラの板?(名前を忘れた)に
はりあわせて、電動糸鋸でPIT文字といわれる厚みのある看板の文字を切る。
25mmの厚みの発泡スチロールに上面にカッティングシートを貼りつけて色をつけた状態にし、カットする。

この作業もお父さんに教えてもらって、切れるようになった。

カットも、もちろん手作業。電動糸鋸で切っていく。

バリバリバリ、、、と電動糸のこぎりがすごい音がするので、怖かったけど
スパっと直線が切れると気持ちがいい。
丸のカーブも何度も練習してちょっとづつ、形になってきた。
切りたい形にうまく切れたときの嬉しさと言ったらなくって。
自分が焦って居たり、手がおかしな方向にゆがむと断面がザラザラになる。

息をとめて、すーっと力をいれず切ることが出来たら、さらさらの断面で見るからに美しかった。
切りたての文字は、発泡スチロールの粉まみれだから、ハケで
さっさ、、、と粉を落とす。

綺麗に切れたときの達成感が嬉しくて、糸鋸が好きになってきた。

しかし、そんな仕事しているから、
毎日発泡スチロールの粉が頭や服についた状態。
なんかサラサラな感触が続いてた。
20代女性とは思えない小汚い感じでした。


同僚の社員さんたち

一緒に入った8つ年上の29歳の女性Oさんは頼もしく感じた。
赤い口紅をひいて髪の毛もサラサラロング。
ちょっとバブルのにおいがする仕事のできそうな方だった。
仕事が看板の仕事だから、常にジーンズにTシャツという姿で
私には違和感があったけど。

後2人は男性。
2人とも26歳くらいだった。

男性だけに力仕事や夜のお店の仕事担当で動いていらっしゃった。
学生時代ヤンキーだったんだろうなぁ。というぶかぶかな服、茶髪の男性と
ボードが好きな男性の二人だった。

2人で下ネタばっかり話してて、下ネタ抵抗があったので遠巻きにしていた。

社長の弟は、元美容師さんだったそうでドクターマーチンとこだわりのジーンズをはいたおしゃれな男性だった。
ちょうど一まわり離れていたことに驚いてらして、
そりゃ、失敗するもんだと温かく見てくれてた。

時代の変化とともにあっという間に下降線へ

おそらく私が入社するころから業績が落ちかけていたのだと思う。

全体的に、どんどん仕事が減ってきていた。
やることがないなぁ。という日も多々増えてきて。

会社に導入したMacやwindowsが空いてるときはさわっていいよ。
と言われて、本を買って自分でillustratorやphotoshopをやってみてた。

ネットもISDNの時代。
ピーコロコロ、、、、と遅い接続でネットを閲覧するよりも
本を買ってそれをまねて何か作ってみるほうがやり易かった。

社内の人みんな、パソコンについては同じくらい知らない人たちだったし自分で知識を得るしかない。
本を何冊か買ってできることが増えてきたのが嬉しくなった。

そして、ここにいても、仕事も少ないし成長できないな。
もっと広告デザインをしてみたいと思い退社することにした。

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