そのまんま 11.15 午後
構成も何も考えずに、その日考えていたことをただ綴っていく。そのまんま。
知らないことだらけ
自分の周りには、知らないことだらけで。研究していることですら、まだまだ世界は広い。死ぬまでに気になること、全部知ることはできるのかな。死ぬまでに叶えたいこと、全部できるのかな。
叶えたいことはたくさんあるけど、叶えるためにやるべきことはそれぞれについて、明確に見えている。時間があれば、全部叶えることができるかもしれないけど、人生いつ終わるかわからない。
だから私の研究も含め、当事者の許可を得て、自分の発信を通して「課題」をまいている。それが小学生や中学生、高校生や大学生の目に触れて、「研究してみたい、解決してみたい」。そう思ってくれる人が一人でも増えるように、発信している。
私の場合だと、自助具の研究を通して「片手の世界」を発信している。何に繋がるかは最初に分かるのではない。最後に自然と繋がるもの。そう思っているので、周りの影響も考えつつ「研究の楽しさ」を鍵に、自助具の研究を発信している。
私だけでは足りない。とてもじゃないけど人生の中で叶えきれない。「私」が叶える!ではなくて「みんな」で叶える。そんな社会の方が私は好きだ。私が叶えるのでは、生きているうちに叶えきれないから。
明日生きている保証なんてどこにもないし、「明日やろう」の「明日」があるなんて、誰も証明できない。だから自分の人生において、「明日やろう」はしないようにしている。やりたいときに、やりたいことをする。これがモットーの由来にも繋がっている。
もちろんやりたくないことも、「明日やろう」は避けるようにしている。私は明日を生きるではなくて、今を生きる。
全ての「デザイン」に意味がある生き方
私は、比較的「ずっと考えて行動している」のかもしれない。なんらかしらに意味がある。意味というか意図というべきか。発信の仕方、プレゼン、名刺、話し方…そうだ、こだわりがある。
だけど、何も考えていないときに思わぬ反応が得られたりすることもある。例えば、意図しておいたわけではないイラストの配置が、奇跡的に深い考察を呼び起こしたり。感覚で書いた歌詞が、違う意味ともとれる掛詞になったり。
ずっと考えて行動する癖があるけど、何も考え続けることばかりが全てではないのかな。何も考えないからこそ生まれる純粋無垢な芸術も、奥が見えない不思議な感覚になるようで美しい。
突然好きな画家の話
純粋無垢な芸術で頭の中に出てきたのだが、私は結構「何かサプライズがある芸術」「作り込まれた芸術」が好きなのかもしれない。
シュルレアリスムの作品、特にルネ・マグリットさんの作品がずっと好き。サルバドール・ダリさんも好きだが、あのマグリット特有の現実と非現実の曖昧さ。たまに想像するけど、ありえない現実を見ることができる。
常に自分の想像を超えてくる。りんごでか。よくマグリットはりんごを描いている。大きさによって空間の緊張感が全く異なる。顔がりんごになっているのは、確かに胴体までは人間なのに、人間ではない。この曖昧さがなんともくせになる。
シュルレアリスムの時代の絵は、何回みてもサプライズがあるので、飽きない。結構好き。一見はちゃめちゃな絵を書いて、何も考えていないように見えるけど、ものすごく考えられている。書いた本人にしかわからないけど、めちゃ考えていると思う。
だからなのかもしれない。熟考した末の芸術のサプライズが好きだから、自分も人を驚かせたいと思ってしまうのかも。そうなのかも。