ドーナツを描くと言われた日
「明日の図画の授業は、ドーナツの絵を描きます。なので、必ず明日は見本となるドーナツを持ってくるように!」
私がまだ小学生だったある日の帰りの会。先生が唐突に変わった課題を出した。(そうかー、ドーナツの絵を描くのかー。楽しそうだな)。
しかし子供はすぐに忘れる。家に帰るが早いか再び外に飛び出し、クタクタになるまで遊び倒す。五時を告げる『夕焼け小焼け』のチャイムが町に鳴り響く頃には、ドーナツの事などすっかり忘れていた。
晩御飯を食べ終わると、まだ八時前なのにもう眠くてしょうがない。しかしそれを堪え、ソファーに寝転がりながらテレビを見る。ふと思い出した。
「あ!ドーナツ!」
「おばあちゃん!明日学校にドーナツを持っていかなきゃいけないんだった!」
慌てておばあちゃんに報告する。その頃は親が共働きだったので、おばあちゃんが私と兄の面倒を見ていたのだ。
まだそんなに遅くないので、やっている店は幾つかある。おばあちゃんはパジャマのままの私を連れ、近所のスーパーに駆け込んだ。ところが、いくら探してもドーナツが無い。店員さんに聞いてみる。
「ドーナツはどこですか?」
「それが今日はドーナツがやけに売れてしまって、無くなっちゃったんですよ」
仕方が無いので別の店へ。
「今日は売り切れました」
何件も回ったが、どこもドーナツは売り切れ。そりゃあそうだ。学年中の子供が明日に備えドーナツを買ったのだ。そんなに大きくもない私の住む町は、局地的なドーナツ不足に見舞われていた。
「しょうがない。作ろう!」
おばあちゃんが思いもよらない事を言い出した。
「え?ドーナツって作れるの?」
幼い私には、にわかに信じがたい話だ。
「勿論よ!早く帰って作ろう!」
家に帰るとおばあちゃんは手際よく準備を始めた。何種類かの粉や卵、牛乳などなど。(こんなもので本当にドーナツが作れるのだろうか?)。私はまだ半信半疑だった。
材料を混ぜ合わせ、こねていく。私もちょっとやらせてもらう。楽しい。眠気はとうに吹き飛んでいた。
生地が出来ると細く伸ばし、リング状に繋げる。おー、ドーナツらしい形になってきたぞ。そしていよいよ最終段階。リングを油に入れて揚げるのだ。私はドーナツが“揚げもの”であることを、この日まで知らなかった。
出来た!揚げ色が一定でないし、お店で売っているドーナツのように完全な円ではない。要するに見た目が悪い。しかし一口出来立てのアツアツを口に入れると、信じられないぐらい美味しかった。
「明日はこれを持っていきなさい!」
お婆ちゃんが魔法使いに見えた。
「さあ、皆さん!持ってきたドーナツを机に出してください!」
待ちに待った図画の授業。皆ワイワイとドーナツを取り出す。それにしても皆はどこでドーナツを買ったのだろう?ちゃんとお店で買ったものを持ってきている。どこへ行っても売り切れだったのに。手作りのドーナツを持ってきた奴なんて一人もいない。
私は机の中に入っているおばあちゃんのドーナツの存在が、急に恥ずかしくなってきた。皆のは全体的に濃い茶色で、そこに乗っかる砂糖の白が際立っている。私の不恰好なドーナツを見られたら、何て言われるだろう。
「先生。ドーナツを忘れてしまいました」
気付くと私の口からそんな言葉が出ていた。
「なに?あんなに持ってくるように言ったのに、なんで忘れるんだ!皆を見てみろ!ちゃんと持ってきているじゃないか!」
担任の男性教師は私を叱責した。机の中には確かにドーナツがあるのに、どうしても出すことが出来ない。涙が溢れそうになってくる。
「もう知らん!座ってろ!」
先生は呆れた様子でそう告げた。それからの二時間、皆がドーナツの模写に励むのを私は黙って見ていた。
ようやく模写の時間が終わる。すると先生が言った。
「よし!それじゃあ、ドーナツを食べてもいいぞ!」
教室は歓声に沸いた。学校でおやつを食べるという非日常。突然やってきた嬉しいサプライズに、皆の顔から笑みがこぼれる。しかし、美味しそうにドーナツを頬張る皆の姿も、私は黙って見ているしかなかった。
放課後の帰り道。道端のゴミ箱に、私は黙ってドーナツを捨てた。
「お帰り!今日はどうだった?」
笑ってそう聞いてくるおばあちゃんの顔を、私はまっすぐ見ることが出来なかった。
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