会えなかった五世代前のご先祖様に思いを馳せつつメモ(母方編)
これまでのやつ↓
最近母方の戸籍謄本を追加で取り寄せました!
母方、謄本は割と揃えやすかったものの、旧土地台帳は諸事情によりまだ取れておりません。
旧土地台帳を旧刈羽郡エリアで取り寄せたい方は、絶対一度法務局さんに問い合わせてからにした方がいいです!
大抵は昔の住所で取り寄せ可能みたいなのですが、このエリアは現住所でなければNGの様です。
母方、祖父の系統は多分土地持ってない家も多いんですけど、祖母の系統は持ってない家があまりないくらいだと思うので、何とか取得出来るといいな……!
傳八さん(母父父父父):高祖父傳八さんの父。どちらも傳八さん。
完全に江戸時代の方。何代前から傳八さんなんだろう?
戸籍謄本で名前のみの確認。
長男の傳八さんが天保元年生まれなので、こちらの傳八さんは天明〜文化くらいに生まれた人かなと推測される。
他の系統に比べ、この母方祖父の系統は少し世代が前(祖父も、その父の曽祖父も五男だからなぁ……)。
昔過ぎて、他の五世代前のご先祖様と比べると、情報が集まるか不安になる時がある。
この系統で他、手掛かりになりそうなのは、なくなった(?)家系図があったらしいという情報か。
本家という印象を受けないので、ひょっとしたら初代傳八さん(誰に該当するかは不明だが、案外この傳八さんだったりするかもね)が本家から分家した流れなんかがそれに書いてあったのではと期待している。
なくなっていたとしても写しがあったり、本家に大元の家系図があったり、実はなくしたと思っていただけで後からひょっこり出て来ていたりするかも知れない。そう……思いたい。
息子の傳八さんも何をしていたのかいまいちはっきりしていないが、このお父さんの方はもっと分からない。
少なくとも刈羽郡付近の農家ではなさそう。この苗字はあまり農村に見当たらない。
そうなると、子孫が住んでいた地域から考えても、商工業者か、武士か。
子孫は商売をしていたが、江戸時代真っ只中にこの傳八さんもそうだったという証拠が掴めていない。
武士だったとは伝わっていないのだが、この苗字はどうも武士がよく検索で引っ掛かる。
大昔に武家から分家して商人をやっていた、なんて可能性も否定出来ない。
他にも色々な可能性がある様に感じられる、不思議な家系。
とにかくちょっとずつ調べて、傳八さんがどんな事をしていたのか知りたいなと思う。
不明(母父父父母):全く分からない。
昔の女の人は、長生きでもしない限りはなかなか記録に残りにくいので残念。
久四郎さん(母父父母父):高祖母トリさんの父。
戸籍で名前のみ確認。
フルネームで調べると、「もしかしたら?」という柏崎付近の同姓同名さんがいる。
ひとつは嘉永の頃の商人の記録。この家系には商売人が多いので、同一人物という事は十分有り得る。
もうひとつは、出身の村の記録。村の神社の為に寄付をした人物の名前の中にあった。
珍しくない苗字の割には、何とか情報が掴めて助かった。
おおよその出身地が分かると、それだけに見えるが、実際これが本当に助かるのである。
不明(母父父母母):分からなかったが、夫久四郎さんの住んでいたエリアは分かっているので、ワンチャンお名前くらいは判明するかもと期待している。
傳次郎さん(母父母父父):高祖父多吉さんの父。
多吉さんは他家へ養子に行ったので、苗字は違う。
この傳次郎さんも、フルネームが柏崎付近で引っ掛かる。
縮布商人で、上州(群馬)に売りに行っているメンバーの中にお名前があった。
確認する方法は特にないなーと思っていたのだが、最近になって母の有力証言「家に同じ苗字の人の出入りがあった、服を売ってくれていた」が出て来た。
祖父母に質問してみたところ、まさにその苗字の呉服屋さんとやり取りがあった、という証言も得られたのである!
当時、家のボスだったテイさん(私の曽祖母)から見たおじいちゃんが、まさにこの傳次郎さんである。
もしかしたらその呉服屋さんは、傳次郎さんの親戚筋が経営していたのではないか。
他にも、テイさんの謎の布エピソードがある。
大伯母の自分史によれば、戦時下で布を手に入れるのが大変だったのに、グリーンの袴を作って貰ったとあった。
その布の出所は、ひょっとしたら親戚だったのではないか。
昔は今より親戚同士の結び付きが強い印象がある。
以上の事から、傳次郎さんは実際縮布商人だったのではないかと推測している。
そして実はもうひとつ、もしかしたらこれも傳次郎さんの可能性があるかもと感じた記述があった。
こちらはまだ完全に未確認だが、ある学者さんのプロフィールの文章に、同姓同名の人物を発見したのだ。
ある学者さんから見た祖父が、傳次郎さんと同姓同名に当たる。
柏崎町の人らしく、時系列的にも矛盾はない。
しかし何しろ、詳しい家系図もなければ、噂話を聞いた事もない。
柏崎は港町。あちらこちらから人が集まっていただろう。同じ苗字でも様々な系統が入り混じっている可能性は高い。
よって、フルネーム一致だけでは色々弱いのも確かだ。
直接柏崎に出向くなどすれば、もっと傳次郎さんの情報も集まるだろうか。
不明(母父母父母):多吉さんの母も不明。傳次郎さんの情報が掴めれば、ワンチャンお名前判明あるか?
茂三郎さん(母父母母父):高祖母レイさんの父。
戸籍謄本、レイさんの部分に「父母の氏名届出に依り〜」とあり、名前のみ判明した。
レイさんはおじ(伯父か叔父かは不明)の家から嫁いで来ているところからしても、多分レイさんの幼少期に亡くなっているのだろうと考えられる。
早くに亡くなっていそうという事や、柏崎に多い苗字という事で、正直最初かなり諦め気味だった。
ただ、柏崎の文化などが書かれた本で、フルネーム一致が一件だけあったのである!
単なる同姓同名さんかも知れないが、「隠し芸を披露していた」数人の中に名前があったのだ。
どんな芸だったのかは全く分からないし、先祖と同一人物とは限らないが……き、気になる。
チヨさん(母父母母母):高祖母レイさんの母。
茂三郎さんと同じく、恐らくはレイさんがまだ幼い頃に亡くなったのではないかと推測される。
このパターンは他に父方で「母の名前は分からない」的なものを見た後だったので、名前が分かったなら良かった……という気持ちにさせられた。私も嬉しいし。
市右エ門さん(母母父父父):高祖父市左エ門さんの父。
一瞬どちらがどちらなのかと混乱する。
天保生まれ。
私のご先祖様にしては珍しく、明治で退隠(この場合は戸主をやめ、子孫などにその座を譲る行為を指す)していた。
すぐ亡くなったかといえばそんな事もなく、大正初期までご存命だったみたいだが、譲らなければいけない事情があったのだろうか?
まあ、大正で亡くなった時には八十歳くらいだったので、単に年齢を考えて早目に退いただけかも知れない。
チカさん(母母父父母):高祖父市左エ門さんの母。弘化生まれ。
今の刈羽村に当たる地域から嫁いで来た。
記述からすると、チカさんのご両親も恐らく、チカさんが嫁ぐ前にもう亡くなっている様だ。
大変な時代だったんだな、と思う。
チカさんは昭和初期に八十過ぎで亡くなった様だ。
頓作さん(母母父母父):高祖母コメさんの父。天保生まれ。
同じ村の同じ苗字の家から養子に来たらしい。昔は本当に養子が多かったんだなと感じる。
ちなみに、頓作さんもこの家を継いだ後、なかなか後継にする男の子が生まれず、一回養子を取っている。
苗字からすると、後述する妻のチヨさんの親戚だろうか。いや、もしかしたらそもそも頓作さんとチヨさんは遠い親戚なのかも知れない。
それはさておき、しかしこの養子を取った後、男の子がふたり続けて誕生する。
恐らくこの男児達の成長を待った後、養子の男性は結局生家らしき元の家に戻ったそうな。
昔の養子縁組の解消には、どうやらこういう間が悪くて気まずいパターンもあるらしい。
もっと言えば、またその男の子の代でも子どもが女の子ばかり生まれてしまい、このターンでは多分妻の交代という、非常に心が痛むパターンで切り抜けようとした様だ。
そうしたら何とか男児には恵まれた様子だが、やはり女の子の方が多く生まれていた。
きっとこの家には沢山の親戚がいるに違いない。
頓作さんの血を引いた子孫は、確実にいっぱい存在する。
四人か五人連チャンで女の子だと、男の子に相続させるのが当たり前だった時代の親は相当焦ったんだろうなぁ、とこのお宅の戸籍謄本を見て改めて感じた。
頓作さんが亡くなった時、最終的にこの家を継ぐ事になる次男はまだ十歳くらい。
その子が大人になった後、また自分の様に娘ばかり生まれてしまい頭を抱える事になると、多分想像も出来ないうちに亡くなっただろう。
チヨさん(母母父母母):高祖母コメさんの母。弘化生まれ。
最近になって、このチヨさんが亡くなった時の戸籍が取れていない事に気付き、慌てて取得した。一年も気付いてなくてごめんなさい、チヨさん。
このチヨさんが大正手前くらいまで生きていてくださったお陰で、この家は妙に女の子が多い家系だと判明した。
恐らくはプレッシャーに晒され続ける時期が長くあっただろう。
夫より長く生きたので、息子とお嫁さんの間に男の子が出来るかどうか、ハラハラしていたかも知れない。
チヨさんが亡くなった数日後に生まれた三人目の孫は、……三女であった。
繁蔵さん(母母母父父):高祖父ジョウ吉さんの父。弘化生まれ。
息子夫婦もそうだったが、妻とは同じ歳で、ちょっとだけ妻の方が早く生まれている。
割と大袈裟でも何でもなく、生まれた瞬間から結婚が決まっていそう。
ちょっと気になるのが、「◯◯孫三郎長男分家ス」とある事だ。
長男なのに分家したのか?
大体の昔の戸籍は、前戸主が亡くなった後、多くは長男が戸主を継ぐところから始まっている。
これに当てはまらなかったパターンがもうひとつ母方にあったが、その理由は「前妻の子ではなく後妻の子に後を継がせたい」というものではないかと推測された。
このお家の事情は全く分からないが、一悶着あった可能性を考慮する必要がありそうだ。
タノさん(母母母父母):高祖父ジョウ吉さんの母。
夫とは同じ歳で、数ヶ月だけ夫より早く生まれている。
タノさんや、タノさんの実家の情報は少ない。
文献などに残された名前の完全一致でもなければ、個人について知る事は難しい。
熊吉さん(母母母母父):高祖母ヨフさんの父。文久生まれ。
このお家で戸籍が取れる可能性に一年気付いていなかった。本当に迂闊というか粗忽というか何というか。取れて良かったです。
父方にもいた「熊吉」さん。
当時の流行かな。
昔の人の名前って「熊」が多いなと思っていたのですが、何かで見たところによれば「熊みたいに丈夫に育ちます様に」という感じの願いが込められているとかいないとか(何で見たか忘れてしまいました……すみません)。
今だったら「健」とか「育」みたいな漢字を入れるイメージなのかな。
亡くなったのは昭和二十年、戦争が終わって少し経った頃。
母方祖母は会った記憶が無いみたいだが、ほんの数年生きた時代は被っている。
覚えていないだけという可能性もあるのかなと思う。
上の記事でも触れた事があるのですが、刈羽村の桃農家さんだったそう。
くぅ〜桃食べたい。
前戸主の名前や、行方知れずで長く戸籍に残っていた熊吉さんの大叔父、その大叔父の横に載っていた熊吉さんの曽祖父の名前。
どうも引っ掛かる事があるのですが、色々噛み合わない事も多いので、まだまだ調査は続く。
八十代半ばで亡くなった。
時々「はぁ〜こんな長く生きたってしょうがない……」と凹んでいる母方祖母にはあまり言えないが、多分祖母は、遺伝的には割と長生きに向いているのだ。
ヤスさん(母母母母母):高祖母ヨフさんの母。熊吉さんのひとつ下。
「わ〜い塚田家取れた!」と喜んだのも束の間、「ヤスさん死亡まで取れてないじゃん!」とすぐに気付いた私、一年前より確実に成長してるじゃん。
慌てて取得しました。
どうやら熊吉さんが亡くなった二年半後くらいに、やはり八十代半ばで亡くなった様だ。
上記の通り、母方祖母には言えないが、現時点で最も八十オーバーした先祖を数的に持つのはこの祖母系統である。
熊吉さんとは同じ村の出身。
家督相続した熊吉さんとヤスさんの息子(高祖母ヨフさんの弟)は、ヤスさんと旧姓が同じお嫁さんをもらっていた。
具体的な血縁関係は不明だが、嫁姑は同族ぽい気がする。
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