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かかのかさ

数日前にちょっとだけ新潟へ帰省していました。

今回は天気もやや悪かったので、母方祖父母の手伝いをしたり、話を聴いたりして過ごしました。
初耳の情報もあったので、また少しずつまとめていきたいなと思います。

そんな中で、祖母が話してくれたのが「かかのかさ」。
「かか」というのは要するにお母さんの事だそうです。
お父さんなら「とと」。
祖母が言うには「おかか」「おとと」の方がやや上品な言い方で、大きくなってからはそう呼んでいたそうなのですが、ここからの話は祖母がまだ自分の母を「かか」としか呼べなかった頃のものです。


祖母の母、私から見て曽祖母は早くに亡くなりました。
昭和15年の夏、第二次世界大戦が始まっていた頃です。

祖母が生まれたのは昭和13年の末(昔あるあるで、戸籍上は昭和14年1月にされている)。
その時のお産が相当に難産だったのか、曽祖母はお産の後も母乳が出せない状況だったそう。
しかし嫁ぎ先は農家でしたからあまり休んでばかりいられなかったのか、無理をして働いていたみたいです。
そんな無理が祟ってしまったのか、曽祖母は病死してしまいました。
勿論、具合が悪くなってから近隣の村の医者を呼んだらしいのですが、当時の村医者には対応が難しい症状だったと思われます。
病名は一応伏せますが、現代なら救急車で大きな病院に運ばれれば、ある程度は助かる可能性のある病気でした。
医療ってとても大切なものなんですよね……。


曽祖母が亡くなって、お葬式の後でしょうか。
まだ1歳と数ヶ月の祖母が、よたよたと曽祖母の使っていた笠を持って(年齢的に、引きずってかも?)歩きます。
そして小さな祖母は笠を、曽祖母が入っている骨壷の上に被せて言いました。

「かかのかさ」

かかのかさ(イメージ)
毎度毎度いらすとやさんにはお世話になっております

当然祖母にその時の記憶はないでしょう。
だけど、その様子を見ていた周囲の人々は忘れられなかったのだろうと思います。
骨になったらもう笠は必要無い、それが分からない年頃の娘を置いてこの世を去った曽祖母もきっと、無念だった事でしょう。


そんな経緯もあったからか、はたまた祖母に限ってまさかの曽祖母そっくりさんだったからか、可愛がってくれる親戚は多かったそうです。

だけど、母の日や授業参観が本当に辛かったそう。
今なら多少配慮があって当たり前なのかなと思いますが、戦後すぐくらいだと全く配慮は無かったみたいですね。
同じく小さい頃に父を亡くした祖父と結婚したのも、やっぱり境遇が似ていて共感出来るからなのかな?
なんて私は思ったのですが、祖母によると
「私は亡くなった母に強い興味関心があるが、あの人(祖父)にはまっっったくそういうのが無い」
「何を質問しても知らない、分からないとしか言わない」

そうなので、人によるんだなぁ……と感じました。

祖父の家、話を聴いた限りだとどうも親戚付き合いが少ない家だったみたいなので、それも祖父の思考に影響があるんじゃないのかなと思います。
柏崎近辺に親戚っぽい家がもっとあっても良さそうなものですが、いまいちそれらしい家が見当たらないので、比較的最近柏崎に来た一族なのかなぁとも推測していますが果たして実際はどうなのか。


まあ何にしても、この年齢で祖父母と話が出来るのは貴重でありがたい事です。
亡くなってしまった父方祖父母とも、もっと色々な話をしたかったな。

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