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徳川家康について「思うところ」

「人のふり見て、我がふり直せ」
日本でよく耳にする言葉である。徳川家康という人物は、戦国時代、最後まで生き残り、そして江戸幕府を開くに至った、皆が知る天下人である。

家康以前にも天下を取った人物はいた。「天下」とは最近では近畿地方のことを指すとされている。
戦国初期においては三好長慶。織田家が京都に上る前に、京に上り政治を牛耳ることになった。そのためか、足利将軍家とは対立することになるが。
そして織田信長。安土城を建築し、征夷大将軍、太政大臣、関白のいづれに就任するのか、という三職推任が天皇側、または信長側のどちらかから提案されるに至った。本能寺の変が起こってしまうので、実際どのような政権構想を信長が持っていたのかは謎のままだが。

そして、豊臣秀吉。彼は、信長が横死した隙を塗って、織田家の中で勢力を伸ばし、朝廷の官位をうまく使い、日本の実権を掌握した。金山銀山を押さえ、交通を整え、金銀を掌握することで力を経た。
実際の石高は豊臣家より、徳川家のほうが多いなど、領土分配には初期の足利政権と被るほどに羽振りがよかった。

しかし、三好長慶、織田信長、豊臣秀吉。どの天下人も長くは続かなかった。
家康はこれらの天下人に散々、遅れて覇権争いに参加していくのだが、最後に勝ち残り、280年の江戸時代を築くに至る。
武田家や北条家、今川家、そして天下人であった三好家。戦国初期の大大名が次から次へと滅びていく中で、生き残るだけでも注目に値するのであるが、最後に天下を取り、そこからさらに280年の泰平の世を築くに至る。
なぜ徳川家康にはこれが可能だったか。というのが今回の「思うところ」である。

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