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ラマーズの虜囚

 病院と言うところは、当然ながら情感であるとか、詩情とか言ったものが入り込む余地のあまりない場所で、強いて言えば、病にある人を思う人々の心の内、或いは病に身を侵されながらもなお懸命に生き続けようとする方の生への渇望と言ったものは、それだけで醇乎とした詩になり物語になりうるのだけれど、ゆらい、施設としての病院は冷たい数字の羅列と病に対する怜悧で冷静な眼差しがあるだけで、何事をも面白がる癖の私でも、詩的なものや情趣を病院で見つけるのは、なまなかの事ではない、そりゃ、女性のDrや看護師さん、職員さんとお話しするのは大変に楽しく、時にはそこから詩や物語が生まれない事もないけれど、それは本来的な目的に付随するものではないのだから、病院に行くとなればやはり私は気が重いし、暗澹たる心の澱を携えて彼の地に赴く事となるのだ。

 
 皆様もご存知の如くに、私は少々頭が悪く、その故を以って年に1回、頭部MRIの検査を受けている。
いわゆる経過観察と言われるもので、今すぐ生命に対して何らかの障りが生じるものではないし、日常生活を営む上で何ら不都合があるものでもない。
ボクシングであるとか、格闘技だとか、頭にショックを与えるような運動は慎んで下さい、と医師は言うけれど、50も過ぎてそのようなものに食指が動くものか、そもそも闘争心なんて、私から一番遠いものではないか。
多年に渡りそれまで出来ていた事の正確さと精度が落ち、或いはそれそのものが出来なくなる事を「老化」と言うらしい、これとは少々違うのだけれど、私の場合は40過ぎから急に高所恐怖症になり、そして去年のMRI検査の時から、恐怖症とまでは言えないまでも、閉所に対して圧迫感を覚えるようになった。
これらも広義に老化と言うのかどうか判然としないが、MRIの、あの吉見百穴みたいな狭い横穴に固定具を施されて入れられると、閉塞感と圧迫感が恐怖に変換されて私にのしかかってくる。
呼吸は乱れ、このまま窒息してしまうように思われ、気がつくと私の身体の周りは菊の花で埋め尽くされ、鼻に綿が詰められ、挙げ句、突然に上方向と横方向から紅蓮の炎が私を舐め尽くすような、そんな想像に苛まれ、去年は手に持たされている緊急ブザーのボタンを押してしまった。

 去年、なんとか検査は最後まで終える事が出来たけれど、嫌なイメージが自分の中で固着してはならん、とその後、家でわざわざ押入れに入って訓練したり、できうる限り狭い場所に入ってみたりするのを繰り返したが、なんせMRIほどの狭い空間がおいそれとあろう筈はなく、そもそも押入れであろうが、狭い空間であろうが、落ち着く事はあっても恐怖を覚えるまでに至らず、全く訓練にならずしまいで今年の本番を迎えたのである。
毎回の如く頭部を固定され、耳栓をし、腕は腹の上で両手を軽く結ぶ程度、片手に緊急ブザーを持たされ、緩くベルトで留められる。
ここで少し悪いイメージが湧き、必死で楽しい事を想像する
「腕を胸のとこでクロスしたらまるでファラオやな……」
ちょっとプッとくる。
始めますね。との声ののち、スーッとスライドして吉見百穴に私は飲み込まれた。
いつものことながら、思った以上に天井が近く、その狭さをいやが上にも思い知らされ、少し呼吸が乱れそうになるが、天井に素敵なグラビアでも貼ってあったら面白いなぁ……とクスッとする。
ビービービー、ガーガーガー いよいよ始まった。
私は咄嗟に目を閉じ、近所の元助産婦のフミコばあちゃんから授けられた集中力を高める呼吸法を試みる。

ひっひっふー
ひっひっふー
ひっひっふー

うーん、なんだか落ち着いてきたぜ。昨年のような恐怖感がない。

ひっひっふー
ひっひっふー

どれくらい時間が経ったろうか。はい、終わりますねー、との声がかかり、私はMRIから解放された。
やり遂げた男、滲む冷や汗、兎にも角にも私はMRIを克服した。

 この総合病院にも産科はあろう。生まれて来る命は、これからの物語に満ちている。遠大な未来があり、その未来に最初に関わる場所が病院でもある。
どうやら、病院にもたくさんの詩があるらしい。
病院の廊下で、お腹の大きな女性とすれ違い私は考えを新たにした。

MRI内で私が何を産んだのか
それは分からない

南無

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