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初冬怪談

 玩物喪志と言う。ものに囲まれ、ものに溺れるあまり本来の志を失う事を言う。私なども、はらぺこあおむしグッズに始まり、書画骨董の類、洋画、更紗生地、着物、果ては時代ものの石灯籠の数基を蒐集するに及び、ある日通帳残高を確認したらば、手元不如意とも言うべき事態に陥り、これに慌てて蒐集品を散逸させると言う、徒労と呼ぶよりは出来の悪い喜劇のような事を幾度重ねたろうか。
元より、ありとあらゆるものは、その文化的価値が高ければ高いほど一時の預かりに過ぎなくなる。所有しているからと自侭が許されるものではなく、所有とはつまり、側に置く自由の権利を言うのだ。綺麗な美術品を所有したとて、自らがそれと同化できるわけではないし、綺麗なものを所有しても自らが綺麗になるわけではないのだ。
加えて文化的な価値によっては預かっている間の維持管理義務が伴うのは言うまでもない。
ずっとずっと以前、静岡だか何処かの紙屋の親父が、来たるべき時が来たなら、所有するゴッホやルノワールの絵画を自らと共に白木の箱に入れてくれ、などとぬかして大変な顰蹙を買ったものだ。
あの世へは体一つ、そして六文銭をのみ携えて行くのである。件の親父も針山を登るのに絵画があっては邪魔であろうに、まるで分かっていない。
そう、所有とは同化ではない、まして価値が高ければ高いほど、自侭にはできなくなるのである。つまるところ、価値ある美術品に支払う大枚は、その時代の預り賃に過ぎないのである。

 と、分かってはいても必要に迫られ、且つ情緒的な問題から処分できずにいるものが私には数多くある。それらは世間的に価値ある美術品であろう筈はないけれど、私にとっては千金の価値があるものなのである。
まず、人から買って貰ったりプレゼントとして頂いたもの、これは処分するに忍びない。例えば、関わった子供たちが描いた私の似顔絵や折り紙で作った首飾り、工作、手紙などもそうだし、友人たちの心尽くしの品々、祖父母の遺品、あとベアトリーチェちゃんたちの品は判断に悩むところだけれど、さすがに手紙の類を残しておくほどおめでたくはない、あとは18歳で実家を出る時、先祖伝来の重宝類の中からこっそり持ち出した、梨地蒔絵の文箱や柿右衛門の濁手一輪挿し、小面の能面などがある。これらはもちろん税務署には内緒である、もし税務署員が来たなら、縁日でテキヤから買ったのや、と言い張るつもりである。
そして、今一つは書籍類で、これは数が揃えばかなりの重さとなる。これも遺言により我が師から送られたものが相当数あり、築80年以上の木造家屋であるこの寓居には文字通り荷が重い、そこで書庫兼仕事場として寓居のほど近くに鉄筋コンクリート造りの一室を借りているのだ。

 人々から頂いた品々は思い出のよすがになり、書籍は知る喜びと謙虚を私に与えてくれる。しからば先祖伝来の品々も役に立てねばならぬではないか、聞けば、この寒空にも関わらず深夜に徘徊したり、公園でたむろする少年少女がいると、二軒隣の老友から注進があり、ここは私が一肌脱がねばなるまい、と心に期しているのだ。
まず、手拭いをほっかむりし、小面の能面を被る、幸い木綿の白装束があるから、それを着用した上で百目蝋燭に火を灯す。この出で立ちで、やおら彼らの元へ向かうのだ。
いや、インパクトを狙って一目散に走っていくのも良い。この場合、百目蝋燭の火が消える可能性が高いから、事前に然るべき店で提灯を贖わねばなるまい。
ああ、なんと言う慈愛であろうか、私はいつも青少年の健全な育成を願い、そして斯くの如きに身をなげうち彼らの未来を紡ぎ出しているのだ。

今日も日が暮れていく…
怪談は夏に限った事ではないのだ

南無

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