隣家の東
好きあった、あれほどまでに愛しあった二人に夕闇が迫る。穏やかな風があえかに甘く香り、いたずらに頬をくすぐり、鳥はさえずり、花々が咲き乱れ、煌めく陽光のもとの麗らかな平穏がとこしえに続いていくのだと、この二人のみならず誰しもが信じて疑わなかった午後。
そう、そしてエデンの園はじつに不確かなもので築き上げられていたのだと二人は唐突に気付く。
人の最も確かで、最も不確かなもの、それは愛だ。
自らに何をもたらしてくれるかで量る愛より、あの人に何ができるかを思考思索する愛、自らの地位や立場の保全を期す愛より、温かな居場所を作り届ける愛。
即ち、自らの幸せを託し願う愛より、相手を自らの全霊をかけて幸せに導こうとする愛がより尊い事は言うまでもない。「幸せにしてね」よりも幸せに導く気持ちがなければ所詮結婚など長続きしない。物質的なもので支えられた愛の脆さ、打算に彩られた愛の危うさ、あの人への愛だと思ったそれは、自分への愛だと知った時の冷たい茫漠。
それらを悟り知りながら、尚続ける事を選ぶ空虚と怜悧。
互いが互いの幸せを紡ぐ存在たればこそ、エデンの園は永々と穏やかな午後を続けるのである。
やがて闇が辺りを支配する頃。
男やもめの私はいそいそと夕食の支度にとりかかる。寒くもなってきたし、ここはおでんでもしようと、昼の間に具材を下茹でし、然るのち出汁に投じておいたのである。そこへふと、隣家の夫婦が声高に何かしらを言い争う声が絶え絶えとなって耳に届く。
京都で古い家に住んでます、などと言えば場合によっては大層聞こえが良いものだけど、実際にはなかなか厄介ごとが多い。
遮音性が低いのもその一つで、秋の夜の虫の音であるとか、風に乗って運ばれて来るせせらぎの音であるとか、さうしたものであれば何ら問題はない、どころか、寧ろ歓待すべき性質のものであるけれども、何しろ夫婦喧嘩は良くない。
好きあった二人のそれからの姿を、エデンの園のその後を、音声だけで知らしめられるのは私としても忍びない。忍びないが、春夏秋冬、場数をこなしてくると何となく展開が分かるようになってくるし、何より二人の力学的関係と言うべきものが読めてくる。
私は滅びの美の信奉者であるから、強き者に与することを良しとしない、従って春夏秋冬、私が密かに心で合力するのはお父さんの方である。
九郎判官の例を紐解くまでもなく、儚き者の奮戦は後世に残る絢爛たる物語となり得るのである。
お父さんはまず、お母さんのなじりに対して精一杯の抵抗と反駁を試みる。
お母さんよりも更に大きな声を出し、生物的な優位性を誇示し、威嚇し、威圧する、が、その内容が空疎であるから、お母さんは怯むどころか更に気炎を上げて、お父さんの非の条条を上げ連ねる。
ああ勝負アリ。トーンダウンするお父さん、言葉数が少なくなり、やがて息の根を止められるのだ。
音声が織りなす滅びの美の世界、諸行無常。琵琶法師が吟じる平家物語の幽玄はきっと斯くの如しであったろう、とカタシはおでんを前に深く頷くのだ。
あれほどまでに愛し合った二人に夜が訪れる。
エデンの東。俗にノドの地という。流浪の地、放浪の場所でもある。神の威光が及ばぬ、倦怠と労苦が支配する町である。
かつてあった愛の炎は鈍色をして、しかしそれでも消える事なく二人の心で揺らいでいる。
お父さんは明日の夜、今後の身の安全と心の灯火を託した花束をお母さんに渡すかも知れない。
お母さんはそれを不審視してはいけない。その夜、お父さんは詩人であっただけなのだ。お父さんの更なる悪事の隠蔽が、この花束であるなどとはお母さんの邪推なのだ。
私はおでんの湯気に包まれながら、想像の世界に身を投ずる。
楽園から追われた者たちが集うおでん屋さんがあったらおもろいな。
流浪の地、エデンの東だけに、店名は
おでんのあづま やな……
ふふふ
南無