風哭(かぜなき)

 まぶたを閉じて、両耳に神経を集中する。いっそ暴力的と言ったほうが正しい圧倒的な力の奔流に全身を叩かれる数秒を過ごした後で、ゆっくりと目を開ける。そこは、色彩を失った世界。白と黒、そしてそれらが混ざり合い織り成すグラデーションの世界だった。少し顔を横に向ければ、目に痛くない程度に明るいピンク色のダウンジャケットが見えるはずだが、僕はそうする必要がないと思い、目の前に広がる景色をただ見つめ続けた。空と海、海と陸の境界すら曖昧なこの場所で、左手に伝わる手のひらの温もりだけが確かなものに思えた。



「わぁっ…」

急に開けた視界に、花織が感嘆の声をもらす。分厚い雪雲を通過する弱々しい陽光が、灰色の景色をほんの少しだけ明るく見せる。

「すごいね、ここ…。なんだか怖いくらい」

声の震えは寒さのせいばかりではないらしい。無理もない、というより当然だ。数十メートルの崖下には荒々しく岩に体当たりを繰り返して白く泡立つ海があり、その音に負けないくらいの音を響かせる強風が吹いているのだ。夏にはそれなりに穏やかな表情を見せる海の、対極の表情を体現して。

「ねぇ、アキアキ。ただついて来いっていうからこんなとこまで来たけどさ。そろそろ理由を説明してくれてもいいんじゃない?」

僕―秋元裕明を昔からの呼び名で呼ぶ花織の声には、隠そうともしない苛立ちがはっきりと聞き取れた。こんなところ―冬の日本海。

見るものに例外なく孤独感を叩き付ける厳しい景色。それは裏を返せば、この上なく「独り」になれる、絶好のロケーションと思えた。

「ここでならさ」

展望台の頑丈そうな手すりを握りながら花織に向き直る。

「誰も聞いてないから、思いっきり大声で泣いてもいいんだぞ。なんなら箱ティッシュいるか?」

そう聞いた僕に、花織はあからさまに呆れた顔を向けた。

「まさかアキアキ、そのためにこんなとこまで連れてきたわけ?この寒い中を」

「いや、それだけじゃないんだけどさ。まだもうちょっと準備ができてないみたいだから、その前にすっきりしといてもらおうかと思って」

アホらし、と言って花織が踵を返そうとする。予想通りのリアクションだったが、ここで帰られては連れてきた意味がない。この波と風ならきっともうすぐ、もうすぐなはず―そう思ったとき、視界の隅をふわふわと通過していくものがあった。「来た…!」という僕の声に花織が振り返り、その目を見開く。わぁっ、という声の響きは、先程とは明らかに違っていた。

「これって…なんなの…」

そう呟く花織の目は、次々と舞い上がっては吹き抜けていく、綿菓子のような白い塊に釘付けになっている。

「波の花…って知ってるか?岩にぶつかって泡立った波が、海からの強風で舞い上がる自然現象。いろんな自然条件が重ならないと発生しなくて、例えば風速なら…」

以前に小説で読んで、更に昨日ネットで調べた知識を披露したつもりだったが、花織は気にも留めていない様子で波の花を見つめ続けていた。きれい、という言葉がその口からこぼれるのと、瞳から雫が落ちてくるのはほとんど同時だった。せっかく仕入れた予備知識の半分も披露できなくて残念じゃなかったといえば嘘になるけど。

それよりも見せたかった自然現象をちゃんと見せることができた幸運を喜ぶ気持ちの方が大きかった。僕は小さく息を吐いて、花織が見る景色の一部になることに努めた。



 僕がそれを初めて見たのは確か小学校の頃、テレビの旅番組かなにかだったと思う。いかにも寒そうな景色の中、ふわふわと風に舞う白い塊を、きれいとは思わずに美味しそうだと思っていた。それが食べるものではないということも、「波の花」なんていう名前だということも、そのほんの少し後で知ったことだ。まだ簡単な漢字しか読めない僕でも、「なみ」と「はな」は読めたし、それが幼稚園に

入るよりもずっと前からの友達の名前にある字だということもわかっていた。そして、いつかその友達―美波花織に「波の花」を見せたいと、ぼんやりと思っていた。



 それから十数年の後、このタイミングで僕が花織に「波の花」を見せたいと思ったのにはもちろん理由があって、一言でいうなら精一杯の謝罪の気持ちからだった。

 話というのはまぁ、実に単純で。恋愛関係、もっと詳しく言うなら三角関係に関するものだった。仮に男をA、女をBとしよう。AとB、そして花織と僕。二組の幼馴染、計四人は学部が一緒ということもあってか、頻繁に一緒に遊ぶ仲間だった。その関係が去年のクリスマス前に僕の携帯に届いたメールを契機に壊れたのだ。というのも、AとB両方からほぼ時機を同じくして届いたのが「幼馴染を卒業したいけどどうしよう」的な内容で、あまりの気の合い方にしばらく笑いが止まらなかったくらいだ。ただ、僕にとって笑ってばかりもいられなかったのは、幼馴染独特の勘というやつで、花織もAのことが好きだという確信が持ててしまうことなのだった。つまり本来なら単純な三角関係で済むのに、無関係の僕が巻き込まれての三角錐(・)関係(そんな言葉は聞いた事がないけれど)になってしまったのだ。

 結論から言うと、僕はAとB両方を後押しした。二人とも同じ想いなのだから、さっさとくっついてしまえ、と。それはつまり花織の失恋を決定付けるトドメの一撃に他ならないわけで、それこそが「謝罪」の理由なのだけれど。



「ほら、今ならさ」

できるだけ花織の顔を見ないようにしながら声を掛ける。

「涙流れてるついでに、泣きたいだけ泣いちまえ。波の花のせいってことにしてやっから」

言いながら、つくづく自分の口下手を恨めしく思う。もう少し上手い言い方はできないもんか、と。

「…ついでで泣くって、なにさ。聞いたことないよそんなの」

そう応じながらも、花織が右手を差し出してくる。意味が分からずに見返すと

「…箱ティッシュ。持ってるんでしょ」

と、憮然とした声が返ってきた。僕が苦笑しながら取り出したティッシュの箱をひったくった花織はしばらくの間、強風に負けないくらいの音を出し続けた。

「あのなぁ…いくらなんでもちょっとくらいは女の子らしい洟のかみ方できないか?嫁入り前なんだからさぁ」

だいぶ落ち着いた頃を見計らってそう声を掛けると、花織は

「だって、ここなら誰も聞いてないんでしょ?だったら気にする必要ないじゃない」

と返してきた。

「…一応、俺が居るんだけど」

「モノの数に入ってない」

大袈裟に肩を落として見せると、花織はからからと笑い出した。ひとしきり笑ったあとで、花織は真顔でこっちに向き直る。

「ねぇ、アキアキ」

「ん?」

「ありがと。おかげで綺麗なもの見れた」

「…どーいたしまして。ってか、スマン。マジで」

「アキアキが謝ることじゃないって。こうなる運命、ってやつ?」

「それでも、ごめん」

「もう、あんまりしつこいと崖から落とすよ?ちょうど火サスのラスト十分っぽい場所だしさ」

「いや、勘弁してくれ。ホントのこと言うとさ、俺って高所恐怖症なんだよ。だからあんまり下見たくない」

「そういえば、そうだったっけ。小学校のとき、教室が四階になって一週間登校拒否したもんねぇ」

「…よく覚えてるな。本人が忘れかけてたのに」

「そりゃ、幼馴染だもん。ほかにもいろいろ思い出してあげよっか?」

「いや、いい。嫌な予感がするから」

「またまたぁ、遠慮しなくていいってば。初恋のマユせんせいのこととかぁ~」

「だぁ~っ!それは言わない約束っ!」

「まだまだあるよ~」

「わかった、わかりました!一個いうこと聞くから思い出すのストップ!」

花織が相手だと、だいたいこうなる。いつも通りの帰結に、僕は心底安堵した。とりあえずは、元気になったようだから。

「さて、と。じゃあ何をお願いしようかな」

目の横に涙の跡を貼り付けたまま、花織が悪戯を考える笑顔を向けてくる。

「…あんまりヘビーじゃないやつでお願いします」

「ん、りょーかい。きーめた」

「…なんでしょう?」

「手袋、貸して。左手のやつ。それで、」

「ちょい待ち。一個って言ったぞ」

「もう、ケチ。じゃあさっきの言い換える。左手の手袋と、上着の左のポケットと、左手を貸して、更に一個命令を聞いて」

「ちょっ…それ、ズルい」

「いいから、さっさと寄越す」

花織は返事も待たずに僕の左手の手袋を奪い、自分ではめた。そのまま右手で僕の左手を握って上着のポケットにねじ込んでくる。

「追加の命令。しばらくこうさせて。もう少し、この景色を見ていたいから」

そう言うと花織は正面に顔を向けたまま、動かなくなった。その視線は「波の花」でも荒れる海原でもない何かを見ているようだった。

僕はポケットの中で花織の右手を握ったまま、しばらく目を閉じてみることにした。




 どのくらい、そうしていただろう。

「さすがに、寒くなってきたね。帰ろっか」

「うん、俺もそろそろ風邪ひきそう」

「ねえ、あのふたりにも、これ見せたいな。また来ようね」

「そうだな」

その会話を最後に、僕らは展望台のベンチから腰を上げた。駐車場までの遊歩道に差し掛かるときに、一度だけ振り返ってみる。

 波と風を親にして生まれ出た、儚くも美しい白い塊。空と海、海と陸の境界線など気にも留めずに易々と越えていく波の花が、しがらみに囚われずにはいられない人間をあざ笑うでもなく、ただただ吹き抜けていく。

 僕らが去った後にも何も変わらずに吹き続けるだろう風の音が、さっき聞いた花織の慟哭と一緒にいつまでも耳に残り続けた。



                             了


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