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信長に焼かれた小京都 一乗谷朝倉氏遺跡に行く 福井旅行その1
2023年11月 一乗谷朝倉氏遺跡に行く
一乗谷朝倉氏遺跡は、戦国時代に越前を支配した朝倉氏の城下町跡です。正直こんな山間のなにもないところになぜ城下町なんか、と思うのですが、なにもないのは破壊されてしまったからで、遺跡の規模を見るに、当時は相当栄えていたのではないかと思います。
公共交通機関の便も意外によくて、JR福井駅の駅前から路線バスが出ていて、片道30分程度で到着します。さらに朝倉氏遺跡と永平寺との間にもバスが出ているので、それぞれにどれくらい時間をかけるかにもよりますが、一日でふたつを回ることもできそうです。
朝倉館前でバスを降りると、時は11月、黄色く色づいたイチョウの木がお出迎えしてくれます。
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手前の小さな木々は桜でしょうか。葉が落ちきった木を前に、常緑樹の森をバックに、黄色のイチョウが一段と映えています。このイチョウの場所からして、すでに遺跡の区画のなかなのは、桜の木の手前、低い石垣があることからもわかります。
一乗谷、というからにはこの場所は谷であり、山肌にそって遺跡を登っていきます。当時はあったであろう建物はなにも残っていないので、見晴らしのいいこと。
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先ほどのイチョウを、こんな上から見下ろすことができます。いにしえの区画もはっきり。
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小川を挟んで対岸には、一部復元されているところがありました。
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一方こちらは、少し登ったところにある諏訪館跡庭園。朝倉義景の妻、小少将が住んでいた館であったと伝えられているとのこと。かつての日本庭園の石組みが残っています。
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さらに遺跡を登っていきます。
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次は湯殿跡庭園。縦長の石が多く使われているのが特徴だとか。
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次は中の御殿跡。朝倉義景の実母、光徳院の屋敷跡と伝えられているとのこと。
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規則正しく並ぶのは、柱かなにかの土台でしょうか。
次は、南陽寺跡庭園。
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南陽寺は朝倉氏の子女が入る禅宗の尼寺で、かなりの豪華さを誇っていたとのこと。1568年には、かの足利義昭をもてなすための歌会も、ここの門前にある糸桜の下で行われたと伝えられているそうです。
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朝倉館跡は、行ったときにはまさに調査してます、と行った感じのコーンが立っていました。
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小川を渡って向かいには、雲正寺地区・平面復原地区というのが広がっています。
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今はなにもない山間にこれだけの規模の城下町があったということに、そして、これだけの規模の遺跡がこんなにきれいに残っているということに、とても驚きました。逆説的ではありますが、きれいさっぱり焼き尽くされたからこそ、そのあと町が発展することなく、きれいに遺跡が残ったのでしょう。
5代103年間に渡って越前国の中心として繁栄し、この間、京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。
という土地が、1573年に信長に破れてから、1967年に発掘が開始されるまで、400年あまり眠っていたわけですから。
そういう意味では、素晴らしいものを見たと思うとともに、はかなさなどの少し複雑な感情も抱く、遺跡観光でした。