なぜ若冲「池辺群虫図」を愛するに至ったか
さて、大いに楽しんだ「花鳥風月ーー水の情景・月の風景」なのですが、会場では展示室の間の通路にて、QRコードを使ってなにやらサイトの紹介やらも行っていました。そのうちひとつが、TUMUGU Galleryにおける若冲の動植綵絵「池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)」の鑑賞・解説ページの紹介でした。
「池辺群虫図」は以前見たことがあって、おそらくは2022年の夏に東京芸術大学美術館で行われた特別展、「日本美術をひも解くー皇室、美の玉手箱」だったろうと思います。その展覧会では、全部で30幅ある動植綵絵のうち10幅が一度に展示されるということで、これは見逃す手はないと見に行ったのでした。
ぱっと見たとき、「池辺群虫図」は、なんとも地味な絵だなあと思いました。動植綵絵はその絵によって描かれる動植物がさまざまに異なっているのですが、「池辺群虫図」に描かれているのは、舞台の中心たる池と、画面周囲をぐるりと回っているへちまのような植物、そして群がる虫、へび、蛙たちです。虫のなかには蝶のような見栄えのするのも紛れていますが、多くはバッタ、トンボ、セミ。虫の色彩は乏しいですし、へちまの葉は虫食い穴だらけ、青虫毛虫が画面前方に陣取るわで、少なくとも現代の虫に対する感情をもって画面を見ると、引きつけられる派手さ、かわいさが皆無なわけです。
面白いとすれば画面右中段の、浅い池にいる蛙たちがみんな同じ方向を見て行儀よく座っていることくらいかなあ、と思っていたところ、同じ池の画面左前方、黒くて丸い物体群を見てふと気づきました。
あれ、この黒くて丸いの、オタマジャクシじゃないか。
それまではなんとなく、池に沈む黒い小石だと周辺視野で見ていたのですが、この黒い小石にはひょろっと伸びる尻尾がついています。まごうことなくオタマジャクシです。それが画面左下にびっしり描かれていて、だけでなくそこから画面右下にも泳いで行ってる奴らがいるし、画面左中段にも群れがいます。池はさながら、オタマジャクシの楽園のようです。
そう思ったとき、この画面に描かれる、さまざまたくさんの虫たちを見る目が変わりました。この狭い画面にあふれるあまたの生命。それは縮尺された自然であり、自然を生きる生命たちへの、割れんばかりの讃歌のように思えました。特に論理的つながりはないのですが、急にそう思ったのです。
江戸時代の絵画を見ていると、ひとつの画面に多くの種類の動物を集めて描くというのは、それほど珍しくはないように思います。それはたぶん、博物学の発展とか、外国からの珍しい動物の知見が入ってきたりといった社会状況と、無縁ではないでしょう。描く動機のなかには、ここでわたしが感じたような生命讃歌の意味合いが含まれてる絵も、ひょっとしたらあるのかもしれません。
しかしわたし個人としては、今まで見たそれらの絵のなかで、「池辺群虫図」を見たときに感じたような、強い生命讃歌を感じる絵には、まだ出会っていません。その理由を推測するに、描かれている対象への感情ーーここで描かれている対象は、現代の多くの人にとってポップで愛らしい対象ではありません。逆にポップで愛らしい対象であれば、単純にこの子かわいいという感情が勝ってしまうように思いますーーという点と、実際の自然と結びつけやすいものであるかどうかーーたとえば同じ若冲で言えば、先日見た升目描きでおなじみ「鳥獣花木図」にはやはり多くの鳥獣が描かれていますが、実際にあれに近いスケールであの鳥獣が一同に会するのは、あまり想像できませんーーという点に、違いがあるのではないかと想像します。
実際のところ、作者たる若冲の意図はわかりませんが、そういえば「池辺群虫図」に強い衝撃を受けたんだということを、急に思い出したのでした。