第一話 落語家大襲撃【THE ASAXAS CHAIN SAW MASSACRE】#絶叫杯
偶然、上野でパンダが焼け死んだ。
偶然、隅田川がプランクトンの繁殖で血の色に染まった。
偶然、浅草駅に散った酔っぱらいの吐瀉物が「666」をかたどった。
偶然はねじれにねじれ、必然に行き着くもの。
8月26日、東京都内の落語家が群発的に襲撃された。
最初に気づいたのは台東区にある落語協会ビル6階、会長室へ向かった秘書の倉田だった。
倉田は目の前の光景が信じられなかった。紫の紋付の男が会長の椅子に座っている。だが、男の顔には半紙が覆うように張り付いていた。顔から出血しているのか。わずかに半紙が赤く滲んでいる。
「か、会長っ!」
倉田は男に駆け寄った。紫の紋付は、会長である桜円蘭が好んで着ているものだった。用心しながら紙をはがす。血の匂いが鼻をつく。円蘭の顔は二つに割られていた。
会長の無残な姿に倉田は思わず飛びのく。そのとき、円蘭の体にぶつかると懐から、書状が一枚滑り落ち床に開いた。
紙には「一門独立」とあった。
「バカな……」
倉田の顔が青ざめる。
一門独立。それは関東一帯を支配する落語協会と袂を分かつことを意味する。つまり、噺家の聖地である浅草はおろか、協会がしきる演芸ホールで寄席は二度と開けなくなるのだ。
噺家としての名誉を捨てる狂人の振る舞いに倉田は戦慄した。
「とにかく伝えなければ……」
倉田は汗を拭いながら、扉に向かおうとする。だが、その足は止まった。
窓ガラスに反射する人影に気づいたのだ。
背後にぼんやりと小柄な袴姿が映る。目を逸らそうとしても、注視してしまい振り返ることができない。
「よお」
人影の声には、死体を目の前にしてるとは思えない明るさがこもっていた。
「火ィ貸してくれるかい」
倉田の震える手から、人影はライターを受け取る。紫煙の匂いが血の臭いと混ざった。
「ありがとよ。アンタ、円蘭の秘書か」
「お前が会長を……」
「質問に質問は感心しないな」
背後の声色が変わる。機嫌ひとつ損ねれば首を落としかねない、鋭い声だった。
「もう一度聞くよ。アンタは円蘭の秘書かい」
倉田はゆっくりと頷いた。
長いの沈黙の後、短く笑い声がした。
「そうかい」
影が倉田の背中を叩く。窓ガラスの反射でも心から笑っているように見えた。
あぁ、助かった。
心から安堵し、体から力が抜ける。その拍子に倉田は後ろへ重心を崩してしまった。
「あっ」
背後の足を踏んでしまった、と気づいた時には遅かった。倉田の膝から下がなくなっていた。
切断された両足が、拍子遅れに倒れる。
傷口から迸る血液が黒々とシミを作っていく。
「悪いな、手癖でやっちまったよ……でも、アンタも悪いぜ。噺家の秘書が、噺家の足踏んじまうなんてよ」
倉田は激痛のあまり目を動かすばかりだった。目の前には、小柄な老人がいた。花浅葱色の羽織に、見慣れない破れ扇の紋が入っている。
「俺はな、嵐平次。夜薙屋嵐平次っつうんだ。次の会長によろしく頼むぜ」
老人の目尻に皺が寄る。愛嬌のある笑顔を残し、嵐平次は部屋を後にした。
所変わって、江戸川区文化ホール。
「ヒハハハハ!まだまだ逝けるなぁ!!」
生首を片手に男が叫ぶ。破れ扇の羽織がはためいた。
池袋では無残に肉塊が転び、江東区いきいきカルチャー劇場には無言の死が。国立市公会堂を覗けば銃殺、惨殺、大爆殺。軍靴がホールを踏み荒らす。
これは七人の落語家の身に起きた悲劇の物語である。
柳平と嵐平次、落語家たちの運命が一層哀れさを感じる。
だが、たとえ彼らが長生きしなかったとしても、かくもおぞましき恐怖の体験はのぞまなかったろう。
桜柳平が帰ってきた夏、寄席は悪夢へと転じた。
その出来事こそ――江戸落語史上最も異様な犯罪の一つ――浅草チェーンソー大虐殺だ。
桜柳平はひたすらに話し続ける。
聞くものは一人としていない。
己の声のみが冷たい壁に反響する。
三方を窓のないコンクリート壁で囲まれ、鉄扉で閂された八畳間で噺を続ける。その日に決めた噺を一日ただ繰り返す。それが柳平の習慣だった。
着物には伸びた白髪と髭が垂れ、その姿は鬼を彷彿とさせる。白熱灯が昼夜点灯しているせいか、眼は異様な光を放っている。
畳は柳平の座る部分だけ削れ、垂れ流した小便の跡が黒々と残っている。それに気づかず食器の破片を扇子に見立て話していた。
「心眼かい」
不意に、扉の向こうから声が聞こえた。
ひたすらに話し続ける。
柳平がその日、噺に選んだのは、たしかに「心眼」だった。
だが、柳平は確信している。この八畳間に訪れた人間はひとりとしていない。年月の長さは壁に刻まれた夥しい数の正の字が証明していた。
そう、現実ではない……、一度ならば。
なぜここに来たのかは歳月の中で曖昧になっていた。ただ、前座から二つ目に上がってから、柳平はこの場所で過ごしてきたことだけ覚えている。
外にいれば何度も寄席に上がって客を笑わせられたのだろうか。
寄席こそ噺家が生きる場所ではないのか。
自分は飼い殺しにされているのではないのか。
否。
柳平は全ての疑念を振り払う。
断じて違う。待ち続けているのだ。磨き続けた噺を、寄席で披露できるその時が来るのを。
そのために課された修行なのだ。柳平は心からそう思っていた。
「心眼かい」
扉越しの二度目の問いかけだ。
来た。声は己の幻聴ではないことの証左だった。
柳平が噺を止める。
「へい」
「心眼は人の心を見抜く話だな。桜柳平、お前には私が見えてるか」
しばらく柳平は沈黙する。
「......落語協会会長です」
「ほお、その心は」
「芯が通った声です。きっと同業に違いねぇ。そんでもってお若いのに腹の据わった匂いがしやす」
「流石だ」
鉄扉に空いた配膳口から名刺が放り込まれた。柳平はそれを恭しく拾う。
「落語協会会長 瑞相亭京馬」とだけ書かれていた。
「お前を寄席に出すか試す」
柳平の背中の毛が立つ。ついにこの時が来た。
目覚めたら一画ずつ壁に刻んできた正の字は2191個と三画目。ちょうど三十年経っていた。
己の予感は間違っていなかったのだ。
師匠は「噺家は24時間練習しなくちゃなれねぇ」と口を酸っぱく言っていた。
だから、いつも気絶するまで練習してきた。目の眩む膨大な月日も、噺の完成には短く足りなかった。
がちゃん、と鍵が鳴り、鉄扉が開く。
目の前には、黒い紋付をまとい、髪を後ろになでつけた青年が立っていた。
「瑞相亭京馬だ」
京馬の両脇に屈強な男ふたりが並び立つ。
「うちの前座だ」
京馬が紹介すると男たちが会釈する。どちらも負傷しており、一人は頭に包帯を巻き、もう一人は眼帯をしていた。
柳平は目礼をする。だが、視線はすぐに別の場所へ注がれた。
柳平と京馬たちの間に、床に転がされた男がいた。
その男には目隠しと猿ぐつわが施され、体は簀巻きにされていた。柳平は問わずにいられなかった。
「この人は一体」
「夜薙屋嵐平次一門だ」
「夜薙屋……ランページ?」
「お前の師匠、桜円蘭を殺した男の一味だ」
柳平が瞠目するのをよそに、京馬が口を開く。
「まず、落語協会会長、桜円蘭が夜薙屋嵐平次に殺された。これが、昨日のことだ。そして、瞬く間に都内の噺家は惨殺され、すみやかな事態の収拾のため相談役だった私にお鉢が回ってきたというわけだ」
京馬は柳平の理解を待ち、再び続ける。
「嵐平次一門は、裏落語家として落語協会との戦争に踏み切った」
「裏……、なんですって?」
「裏落語家だ。奴らは落語で人を殺す」
俄かに信じがたいと思ったのが分かったのだろうか。京馬の眼が柳平を見据える。年齢が二回りも違う相手の柳平に有無を言わせぬ気迫があった。柳平は本気で言っていると理解する。
「噺の世界は語りが骨となり、見立てが肉となる。一流の落語家がその力を暴走させたら、どうなるか。お前にも分かるだろう」
落語で人を殺す?やはり、柳平は状況を飲み込みきれなかった。
それを見てか、京馬が合図をすると、弟子の一人が紙袋を出した。開くと、強烈な血の匂いが鼻を突く。中には赤黒くなった着物や扇子の骨が押し込まれていた。
「江戸川区文化ホールの遺品だ。このまま放置すれば、噺家は暗殺の大発明家になってしまう」
懐を探ると、京馬は柳平に扇子を手渡した。骨太で堅牢な江戸扇子だった。
「明日まで待つ。寄席のために夜薙屋を一人残らず殺れ」
殺すための武器は言うまでもなかった。己の噺だ。
30年の研鑽で手に入れた噺が人間を死に至らしめられるのか。柳平は確かめるように扇子を見つめる。
厳格な上下関係をもつ落語界。会長の言葉は絶対である。だが、柳平の心は揺らいでいた。
本当に落語で人が死ぬのか。
血まみれの遺品を目にしても事実として受け入れがたかった。
再び京馬を見る。彼の眼に嘘はない。30年間狂わず、孤独に落語を続けてきた男の覚醒を待つ眼。それは祈りにも似ている。
簀巻きの男に視線を移す。青紫の破れ扇の紋付袴にはいくつも黒い染みができていた。これは血だ。この男はやはり人殺しなのだ。殺すに値する人間。
いや。
柳平の頭に可能性がよぎる。
この男がもし醬油さしをひっくり返しただけなら......。
あり得ない。
疑念と覚悟がせめぎあう。
殺せ!
待て。
殺せ!
嫌な予感がする。
殺せ!
殺せ!
殺せ!!!!!
.............。
固く瞑っていた目を開く。
柳平の眼に覚悟が宿っていた。
京馬は頷くと、前座に猿ぐつわを解かせる。
「言い残す言葉は」
「もう半分……」夜薙屋の男が呟いた。
柳平は深く息を吐き、呼吸を整える。水平に扇を構えた。
すべての運を使い切ったっていい。俺のために死んでくれ。
「頼む......」
垢で黒くなった指に力を込めた途端。
男の息が荒くなった。苦しそうに胸が上下する。小刻みに二、三度震えると、男の顎が天井を向いた。
前座が男の容体を確かめる。
「死んでいます」
柳平が立ち尽くしていると、京馬は去り際に告げた。
「一人残らずだ」
時計は午後6時を指していた。
柳平は京馬の護衛とともに、浅草クススを出発していた。一行を乗せたセダンが雷門通りを抜ける。
柳平は自分の埋められていた場所に驚く。浅草クスス、この酷い名前の建物が浅草一の寄席会場となっているらしい。
「浅草大笑閣はどうなっている」
黒い羽織と袴に、黒い帯をまとった柳平が訊く。箒のような髭は綺麗に剃られ、噺家然としているが、その表情は哲学者のような陰りがある。
ハンドルを握る眼帯の前座が、バックミラー越しに答えた。
「あそこなら潰れましたよ」
「潰れた? 寄席といえばあそこが聖地だったろう」
「まあ、そうですね......。色々あったんじゃないですか」
前座は、これ以上聞いてくれるなという素振りだった。
柳平は話題を変える。
「浅草の夜は寂れちまったな」
「会長が厳戒態勢を敷きましたからね」
今度は助手席の前座が、頭の包帯を掻いて答える。
路端に立ち並ぶ商店に光は灯っているが昼間のような活気はなかった。夜の浅草は、久方の静寂に包まれていた。
浅草一帯に瑞相亭京馬は、夜間の出入り禁止を命じた。それは、住民を守るためというより、夜薙屋を狩る目的の方が大きいようだ。
「会長を守んなくていいのかい」
「ええ。会長は先にセーフハウスへ行きましたから。その方がのびのび狩れるでしょう、幽閉さん?」
「ユウヘイさん?」
「ああ、知らないんでしたね」
助手席の前座が説明した。30年間、柳平が演芸会場、浅草クススに閉じ込められていた事実が歪み、「幽閉さん」なる噂が生まれたのだという。
「もとより今のあなたは噺家ではありません。裏落語家を追い詰める狩人です」
期待するように前座が微笑んだ。
「柄でもねえ……」
柳平は景色を目で追う。何度も通った雷門、マクドナルドの紙袋が落ちている路面。埃っぽい空気。30年の歳月は、浅草を既知と未知のパッチワークに変えていた。
「外が気になりますか。」
「ずっと地中だったからなぁ」
「まるでセミですね」
「一週間、寄席で喋り倒して死んでやるよ」
車内で笑ったのは、眼帯の前座だけだった。
「怒らないんですか」
助手席の前座が訊く。
「俺はのんきだからなぁ。それに噺家じゃない奴を怒っても仕方ねぇ。あんた方ふたり、会長に雇われたボディガードだろう」
「おや、気づいてましたか」
助手席の前座は包帯頭をかいて答えた。今度は少しきまりが悪そうだった。
「30年独房でも噺家かは見当がつく」
「幽閉さん......。あなたは噂以上に切れる人だ。じゃあこの車の行く先も?」
「銭湯だろ」
「その通りです! それも匂いで?」
「前を見な」
柳平は、備え付けのカーナビを指す。
ナビは、馬道通りに面する「菊の湯」を指定していた。目的地まで800メートルだ。
前座は肩をすくめると、またこちらに顔を向けなおした。
目的地まで900メートルに離れる。
「では本題に入りましょう。」
現在地はさらに離れ、目的地まで1.2キロメートルを指す。
「なんだい」
「到着する前に目を通してもらいたいものがあるんです。これは──」
突然、弾けるような乾いた音がした。火薬の匂いが充満する。
前座が、懐に手をいれたまま固まっていた。首から血があふれだす。運転席からは黒い銃口がのぞいていた。
助手席の前座は、こちらを向いたままひゅーっひゅーっとふいごのような音を出している。運転席の前座が、舌打ちをする。
「うっせぇ〜〜〜ナァ〜〜!」
さらに破裂音が鳴る。銃弾を受け、跳ねるように前座は、助手席の窓ガラスにもたれかかった。
突然の前座同士の殺し合っている。柳平は考えをめぐらし、すぐに平静を取り戻した。むしろ合点がいったような様子だった。頭に引っかかっていた簀巻きの男の遺言がよぎる。
「なるほどな、『もう半分』ってのは……なるほど」
夜薙屋が残した言葉、「もう半分」。それは落語の演目だった。そしてその内容は......。
「老人が「生き返る」」
「ハハハハハ!! 気づくのが遅かったなァ、お師匠ォ~~~~~~!!!」
バックミラーに映る前座の眼に狂気が光る!アクセルべた踏みによって、セダンが急加速した。柳平の体が座席にめり込む。
目的地まで1.8キロメートル、2キロメートル。目の前にコンビニが迫る。衝突する寸前にドリフト。路地を稲妻のように縫い、大通りへ駆ける。車内はかき混ぜられ、柳平はミキサーの中身になった。
「いってぇ。あんた、俺に何の用だい」
「決まってら! 俺と裏落語勝負だよォ。その前に質問だァ!」
前座はハンドルを切ると、車体が滑る。大通りの中央で無理やり方向転換をかました。
「ひとォ~つ! なんであんたは京馬の前で俺を殺らなかった?」
「俺に殺しの技なんてないからだよ。俺が思うに全部勘違いと悪い偶然だ」
「嘘にしちゃ出来が悪いぜお師匠。あんたにゃとっておきの噺があんだろォ」
「心眼か」
「とぼけんなァ!!!」
柳平の返答を食うようにしてセダンの速度が上がる。さらに体が座席に食い込む。
柳平は前座の顔を見る。その表情は、京馬に近侍していた時とは打って変わり、信じていたものに裏切られた人間特有の凄まじい歪みが浮かんでいる。
「あんた覚えてんだろ? 30年前の今日、客がぶつ切りにされたのを! あんたの手で!」
「俺が……?」
「本当に忘れちまってんのか」
柳平の閉じ込められる以前の記憶はおぼろげだった。それでも人を殺していればいくら柳平でも身に覚えがあるはずだ。
前座は鼻を鳴らす。失望混じりの嘲笑とともに、ハンドルに頭をぶつける。
「畜生......、畜生畜生畜生!!! もったいぶってるだけと思ってひと芝居打ってやったのに大外れでェ! 俺ァ、嵐平次の旦那より強ェ奴と戦えると思ったのによォ〜〜!! もういい!てめぇは墨田区でテキトーにブチ殺す!」
急カーブをいとも簡単に曲がると、車は浅草通りに出た。このまま真っ直ぐ行けば橋を渡り、墨田区へ渡る。すなわち、落語協会の管轄から抜け、柳平の命の保証は一切なくなる。
カーブで減速したセダンはぐんぐんと加速する。無人の浅草で暴走を止める者はいない。
「メンドクセー真似させやがってェ……。てめぇは俺のハサミでボロキレにしてやるチクショおっ!?」
突然、セダンが右に曲がった。柳平はドアに押しつけられた刹那、血まみれの手が、ハンドルを右に逸らしているのを見た。虫の息の前座の仕業だった。
次の瞬間、制御を失ったセダンは車止めを破壊しながら、天地を逆転させた。天井と路面が迫り、血が逆流する。地面の重さを全て受けたような衝撃が車を揺らす。
柳平の意識は途切れた。
目が覚め、柳平は体を動かす。指、腕、脚と順に確認する。打ち身の鈍痛があるが問題はない。
あの狂人はどうなったのか。運転席のシートには鉄パイプが貫通していた。転倒した際に標識の一部が刺さり、座席の中央は赤黒く染まっている。
切り欠いた先端は、柳平の額5センチ前で止まっていた。
「あっぶねぇ......」
安堵したのも束の間。車内にはガソリンの臭いが充満していた。さっきから聞こえる液体の音からして時間に猶予はない。
柳平はシートベルトを外す。助手席の見習いを助けなければ。軋む骨に無理を言わせ、窓から這い出た。
「今出してやるからな」
柳平が助手席を覗くと、誰もいなかった。運転席に貫かれた見習いの死体があるのみで、隣にはなにもない。
「先に逃げたのか」
セダンが炎に包まれた。逃げるように柳平は車道に転がる。
その時だった。
ヴオンンンヴオンンン
夜闇から腹に響く新たなエンジン音。
ヴオンヴオンヴオンヴオンンン
立ち上がり、目を凝らす。
白いポルシェが炎を反射する。ヘッドライトが柳平を照らした。
「あれで死なねェたぁ、アンタも落語の神サマに愛されてんだな!」
ヘッドライトの逆光の中でも気づいた。怒鳴り声は、射殺された助手席の前座の顔からしていた。どこで見繕って来たのか青紫の羽織を纏っている。ポルシェは、今すぐにでも轢殺しようとエンジン音をとどろかせる。
なんとかして身を隠さねば。だが、30年牢にいた自分の体力ではポルシェから逃げられない。立ち向かうにも先程の衝突で柳平の意識は朦朧としていた。
ここまでだ。
死にたくないが、覚悟を決めるしかない。
柳平の運命は、この浅草通りで決まった。
結局、京馬の前で見せた芝居も、変わり果てた浅草の街を見るだけで終わってしまった。
柳平は扇子を取り出す。
黒い袴に、黒い帯、黒い羽織。狩人の装いとはいえ、噺家として死にたかった。
柳平は力を絞り、声を上げる。
「せめて、名前だけ聞かせてくれや!」
「俺の名は夜薙屋轢轢斎!!!! 不死身にして地獄の裏落語家!! 寄席の夢ごと抱いて死ねやァ!! 裏噺『神霧』ィ!!!」
言うが早いか、轢轢斎の右手の扇子が変質する。ポルシェが急加速し、ターボが唸り声をあげる。速度は上がり、2.8秒で時速100キロに達した。
柳平は目を見開く。轢轢斎の右手には鋏が握られていた。黒い刃がアスファルトすれすれにまで伸び、相手の首を刈らんとしている。
己の技を見せたのは、柳平の覚悟を見てとった、轢轢斎なりのケジメの取り方か。
柳平の脳裏に寄席の記憶が蘇る。笑い声と照明。出囃子と拍手。
懐かしさが込み上げる。
──ああ、もう一度。もう一度でいいから、出たかったなぁ。
観客の笑顔と、高座に上がる緊張が湧き上がる。
記憶をかき消すように、エンジン音が近づいてくる。
どっどるるるんどっどっどるるるん
音はすぐそこまで近づいている。
うぉおおんうおおおんうおおおおん
いや、この音は違う。
ポルシェのエンジンではない。これはもっと自分が知っている音。
「毎度ばかばかしい話をひとつ……」
そう呟くと、柳平の手にはチェーンソーが握られていた。
かくしてポルシェは両断された。
浅草通りに黒煙と炎が立ち上る。
路上には、炎の轍が刻まれている。その先にはポルシェの残骸が横たわる。
車体が夜のとばりを燃やしていく。
──俺がやったのか。
最後によぎったのは寄席への思慕だった。地下ではハッタリだったとはいえ、今のは違う。
時速100キロで迫るポルシェをこの手で斬ったのだ。
燃える二本線の間に、柳平は立つ。葬儀めいた出で立ちを炎が照らす。皺深い顔は汗と困惑で凄まじくなっていた。
再び掌を見た。変わらず扇子が握られている。
「あ、あ、あ」
振り返ると、割れたポルシェから轢轢斎が這い出ているところだった。
男の体は無惨にも、右半身のみとなっていた。恐ろしい生命力である。
「み、見事……」
柳平は問うた。
「俺は30年前、何をした」
「知りたいか......、寄席でお前は5人の人間を殺した……チェーンソーで。ばっさばっさと」
轢轢斎は柳平の扇子を指した。
「そいつで。俺の兄弟子も含めて……だが、儂は感謝している。落語の真髄を見せてくれたお前に。だから儂も裏落語家を目指した」
ごひゅっ、血の混じった笑いを浮かべ、轢轢斎は続ける。
「だが、これから先、お前が会う夜薙屋はそんな奴ばかりではない......。お前の意志を継いだ絶技の持ち主がまともなわけがなかろう。.....予言してやる。お前は死ぬ。全てを乗り越えても嵐平次が」
「嵐平次が、なんだ」
柳平が詰め寄るも、既に正気の光はなかった。
轢轢斎は譫言を吐くばかり。
「毎度お話をひとつ。俺は魚屋だったんです……だから天才には勝てない……勝てないなら時間さえありゃいいって気づきました」
轢轢斎の眼はあらぬほうを向いていた。
「時間が無限なら……才能は老衰で勝手に死ぬ。でも俺は無限に練習して上手くなれるんです……どうよ……天才だろォ」
「……その先に何があった」
「天才だろォ」
そう言い残して、轢轢斎は事切れた。その拍子に、ゆるんだ口から何かが転げた。柳平がつまみ上げる。
それはウオノエだった。おそらく、轢轢斎は魚に寄生したウオノエを自分の舌に住まわせたのだろう。そして意識を預け、寄生先を変えて生きながらえてきた。
「落語の神、見破ったり......」
柳平は炎に投げ入れた。
憑物が取れた右半身は、元の前座の姿を見せる。首の銃痕が痛々しい。
「すまねぇ」
ふと、撃たれる寸前の言葉を思い出した。
──到着する前に目を通してもらいたいものがあるんです。
懐を探ると、一切れの紙を見つけた。
柳平はおもむろに開いた。
全支部各位
以下5名夜薙屋一門を見つけ次第、本部まで連絡のこと
〈夜薙屋嵐平次〉
被害…桜円蘭会長、秘書
羽織……花浅葱
齢……57
十八番…『子別れ』
夜薙屋一門の頭目。落語協会の防犯カメラに桜円蘭会長を殺害する一部始終が記録されていた。負傷した秘書の証言によると刃物を所持している模様。裏落語によるものか。
〈夜薙屋轢轢斎〉
被害.......前座40名,二つ目6名,真打3名
羽織...........青紫
齢...........24
十八番...『らくだ』『紙切り』
江戸川区文化ホールにて目撃。鋭利な刃物を所持している。会場に並べられた首の一つから「一門独立」の書状を確認。
〈夜薙屋金烏〉
被害……二つ目12名,真打8名
羽織………鉄紺
齢………45
十八番...『王子の狐』
池袋演芸館にて目撃。会場は血と肉で埋め尽くされていた。特に真打の被害が大きい。「一門独立」と血文字で書かれた緞帳を確認した。
〈夜薙屋芬弥〉
被害.......およそ120名
羽織...........銀鼠
齢………38
十八番…『強情灸』
江東区いきいきカルチャーホールにて目撃。遺体に損壊はなく、眠るように死んでいた。寄席の座布団の上に「一門独立」の書状を発見。
〈夜薙屋えつぼ〉
被害……見習い80名,二つ目20名,真打10名
羽織……牡丹
齢……???
十八番…記載なし
目視での確認できず。現場に落ちていた袴の切端、食べかけのあずきバーなどから国立市公会堂の犯人と断定。近隣住民からロケットランチャー所持の情報。ラメ入りシール付きの封筒から「一門独立」の書状を確認。
羽織には全て破れ扇の紋が入っているため、羽織の色が異なっても接近は試みないこと。
尚、見つけた場合は交戦は控え、直ちにその場から離れて、生命の保持に努められたし。
柳平は懐にしまう。
己の所業を事実として受け入れる覚悟はできた。
俺が裏落語を生み出した。それが正しいならば、やることは一つ。夜薙屋の殲滅だ。
そのために解き放たれた。
そのためのチェーンソー。
柳平は脚に力をこめ、浅草通りをよたよたと歩きはじめる。
行き先はただ一つ。
夜薙屋のもとへ。