BOBCUT〈2〉
金曜日の朝。
駆ける駆ける。
この調子なら3分前着だ。
火曜日の一件以来、私は何度もあの瞬間を再生していた。フラッパーの断末魔。怒り満ちた眼。
なんと言ってもあの長い髪。思い出すと耳が熱くなる。髪を伸ばして出歩くのは裸でふらついてるみたいで、ぞわぞわした。
ボブカット条例が敷かれたK区で髪を伸ばすのは破廉恥以外の何物でもない。なぜあんな真似を──。
「チエ、おそい!!」勢いよく教室に飛び込んだ私にユキの怒声が飛んだ。
詰め寄るユキの眉間にシワが寄る。度が強すぎる眼鏡のせいでゴマ粒みたいだ。
「チエの遅刻はいつものことじゃん」カナはからから笑うと、私の机に腰を下ろしてきた。
カナとユキ、高校でつるむようになった私のお節介な友達だ。
「別にいいでしょ」私はカナを小突く。
ユキは相変わらず詰めてくる。
「大丈夫なの?」
「何が。」
「やっぱ聞いてない!今日小テストだよ。」
「え」完全に忘れてた。そういえばやるって言ってた気がする。
「やっぱ聞いてない!!カナ、次やるよ。」
「おう!かかってきな!」ユキは日本史の問題集を取り出すと、カナに向き直った。
「では、問題です。1912年から1926年までの日本史で最も短い時代区分を何というでしょう?」
「大正時代!」
「正解。では大正デモクラシーの指導理論となったものは?」
「民本主義!」
「ふーん、やるじゃん。」ユキの目がビー玉くらいになる。
「見くびってもらっちゃ困りますなあユキさんや。」カナは得意げに鼻を膨らませる。
「学年トップも交代ですかな?」
「……では次の問題です」ユキの眉間のシワが深くなっていく。ユキは意外と短気なのだ。
「来いっ!」
「大正末期から昭和初期にかけて西洋の流行を取り入れた男女を外見的な特徴から」
「ハイッ!『モボ・モガ』!!」「……ですが。『モボ・モガ』の言葉の発案者は誰でしょう」
「ゥエエっ!?なんだろ……」
「チッチッチッチッ……」ユキの指が急かすように机を叩く。
「待って待って!えーと…えーっと……」
「ハイ時間切れー」
「あああーーーーー!」
キンコンカン。チャイムはカナの敗北を無慈悲に告げた。
◆
ホームルーム冒頭、教師は咳払いをすると、こう言った。
「今日のテストは次に回そう。」
教室から漏れる安堵のため息。そしてまたもや意外な言葉が飛び出る。
「今日は転校生を紹介する。」
教室の騒めきを他所に扉は開く。なびく黒髪。
全身の毛が逆立つ感覚が駆ける。私が間違えるはずがない。颯爽と現れたのはあの時の彼女だった。髪を後ろに束ねているが、間違いない。
「困るなぁ。髪は切っても……。」
教師の苦笑いを含んだ非難は、彼女の気迫の前では続かなかった。
「髪文字 烏羽〈かもじ うば〉です。親の都合でこちらに引っ越してきました。髪は切りません。よろしくどうぞ。」
髪文字さんは淡々と挨拶を済ませると、空いていた私の右隣にどかっと腰掛けた。どうしようかとユキを見やる。ユキが「やべえやつ」と目線を送る。
カナに目線を移す。カナのニヤつき顔は最高潮になり、いつもより楽しそうだ。
近くで見る髪文字さんの肌は白磁であり、路地裏で会った血腥さを一片たりとも感じさせなかった。
しなやかな指先。フラッパーを屠った凶器にはまるで見えない。
ふと彼女の腕にブレスレットが巻かれているのに気付いた。クリアレッドのビーズ輝く腕飾りは、剣呑な彼女の雰囲気と対照的に、あどけなさを残していた。気を取られていると不意に彼女が、ちらとこちらを見る。私は慌てて前を向いた。
「……じゃあ、放送に間に合うよう講堂へ集合するように。」
ホームルームが終わり、一斉に席を立つ。話しかけるなら、ここしかない。
「あの、かもじさん」私は意を決して声をかけた。
「なに。」
「講堂の行き方分かる?」
「大丈夫。」
会話が続かない。沈黙がきつい。
「ブレスレット可愛いね。どこで買ったの?」
髪文字さんは腕をさっと隠す。
「あなたに関係ある?」
「いや……。」
取りつく島がない。逡巡する私を他所に耳元で「それから」と彼女は続ける。
「あの時のこと、バラしたら…分かってるよね?」
路地裏で見た殺気が蘇る。
髪文字さんはそれだけ言い残すと、足早に去ってしまった。
「そのうち仲良くなれるって。行こ。」
隠れてたカナとユキが肩を組んでくる。
「まー仲良くなる前に連れてかれないといいけどね。」
「ユキ!またそういうこと言う!」
「ところで最後の問題の答えって何?」
「あー新居至だよ。」
「教科書載ってないじゃんそれ!」
講堂を行く廊下にカナの声が響いた。
(つづく)