
地雷拳(ロングバージョン28)
承前
眩ゆい光が包んでいる。蛍光色のピンクや、イエローの照明が心を躍らせる。
クラブ・エヴァンジェリンは入金日で熱気に溢れかえっていた。近未来のサーカスをイメージして設計された室内はネオンとシャンデリアで来る者に現実を忘れさせる。総工費10億円もかかっているのは、嘘ではないようだ。
「13番卓に! 超ォ高級シャンパン入りました! 従業員集合!」
「ィーヨイショ!」
ホストたちの掛け声が続き、ひとつの席を囲んでいた。
13番席。革張りのソファには、ふたり座っていた。ひとりは黒髪をセンター分けにした青年、一条レオ主任だ。入ったその月に3000万円の売上を売り上げ、異例の一年目での昇格を果たしたホストだった。
もうひとり、缶酎ハイを傾けて笑う女がいた。ブリーチした色素の薄いボブヘアーで、耳元を編み上げている。耳にはピアスがごてごてとついていた。
「ありがとう」
レオはそう言って肩を抱いた。シャンパンコールが終わり、グラスを傾ける。
半分も飲まずにレオは席を立った。
「もうちょっとだけ……」
女がレオの裾を引いた。
レオは黙ったまま微笑んだ。少しの逡巡の後、女は頷いた。
「……行ってきて」
「平気?」
「うん」
伏目がちに女は首を振った。無理をしている。声をかけてやることはできない。代わりにレオはもう一度グラスを傾けた。
今日は締日だ。非情にならなければならない。
「すぐ戻るから」
離れた席まで歩く。被り同士のトラブルを避けるためだった。ヘルプに目配せをしてレオは他の姫の隣に座った。
「ごめん」
「遅いよ」
女はレオの手を引いた。
「ねぇ、何頼む?」
締め日の今日は、レオの客が全席の4分の1を占めていた。
「姫が決めていいよ」
ずるい言葉だ。とレオは思う。自己肯定感の擦り切れた女たちは、この選択で自分の価値が決まると思っている。
メニューを指が滑り、シャンパンの上で止まった。
今月の売上トップも盤石だった。このままなら、今月は4000万を超える。ぶっちぎりのナンバーワンだった。
「いつものレオくんだね」
肩にもたれかかりながら囁く女の頭を、レオは撫でてやった。
入金日の当日になり、ようやくレオは安堵できた。勝利を肌で感じられたからだ。
不意に女がレオの顔を覗き込んだ。
「ちゃんと寝てる?」
照明とメイクで隠したレオの疲労を見破っているようだ。
「……最近は夢をよく見るんだ」
「夢?」
「照明と音楽が合図になるんだ。俺はいつもみんなの前に立っている。MCが陽気に喋っていて、俺も気持ちが上がる。照明が変わってナンバーが発表されるんだ。もちろんNo. 1だ」
「いいじゃない」
女は微笑む。夢の話と言っても自分のことのように喜んでいる。
「でも」とレオは続ける。
「でも、突然、1の文字が歪んでぐちゃぐちゃになるんだ。俺が夢の中で本当にNo. 1になることはない」
どうして俺はこんなに話してるんだ。本音を話すのは避けていたはずだ。本音で話せば逃げ道がなくなる。
余計な諍いを生まないためのレオなりの処世術だった。
「しょうがないな……」
困ったように女は笑った。レオの言葉を営業と取ったのだろう。女が注文したのはカミュ・トラディションだ。150万円もする超高級ブランデーだ。
「……いいの?」
レオは女の手を取った。
心にあるのは一抹の寂しさだった。レオの本音は彼自身が決めるものではなくなっていた。
「いいんだよ。わたし、来月も頑張る。今度はアフター行けるよね?」
「もちろん。またラインして」
レオは女の頭を撫でた時だった。オーダーを知らせるマイクが入った。
「3番卓にヘネシー入りましたァ! ぃーヨイショ!」
レオではない別の卓で注文が入った。
「ぃーヨイショ!」
ホストたちは普段のように歓声をあげている。だが、レオは異変に気がついた。声はどこか異様な熱気を帯びはじめた。
クラブ内は騒然としていた。台車がクラブの奥から運ばれてくる。方々から感嘆の声があがる。
女も興味を持っているようだった。レオは彼女と3番卓を覗き見た。
3番卓は物々しい雰囲気となった。銀の台車が視線をともなって到着した。
ホスト達は台車の上を見て感嘆の声をあげた。
ヘネシーリシャール。クラブ内の会計では250万円は下らない。それが今、台車の上で四段の塔を作り上げている。
数にして20本あった。総額5000万円の塔が建築されていた。
だが、驚くのは早かった。
「さ、さらにヘネシータワー頂きました! 全従業員集合!」
マイクを持つホストの声は震えていた。
「ぃーヨイショ!」
有無を言わさず、奥から更なるヘネシーリシャールのタワーが運ばれてきた。
ホスト達はどよめいた。当然だった。タワーひとつでもランキングは揺らぎかねない。それが二つともなれば、勝負は決してしまったのと同然だ。
二つのタワーが3番卓に聳え立っていた。
総額一億円のタワーである。エヴァンジェリンの歴史が覆る瞬間だった。
レオもまた、目撃者となった。3番席に座っているのは……龍斗だ。売上ではレオの足元にも及ばない男だ。
レオは気づき始めていた。No. 1の文字が歪み始めていたのはこの時だったのか。たった一夜にしてトップの座を引き摺り下ろされる……夢が現実になり始めている。
レオが奇妙な符号に戸惑っていると、姫のコメントが始まった。
「今日は皆さん、楽しく飲んでくださいね。龍斗と私はエヴァンジェリンの輝く星となって見下ろしてますから。よいしょ」
王者の貫禄すら感じる姫コメントだ。
足元にはスーツケースが2つ置いてあった。開け口から紙がはみ出ている。レオは目を見張った。レシートのごとく一万円札が詰まっていた。
レオは3番卓の姫を思い出した。龍斗がよく喧嘩しているのを見たことがあった。龍斗の病み営でぎりぎりまで売掛をしてくるような女だ。顔の良さを打ち消すような神経質な印象だったが、今の彼女はソファで足を組み、グラスを傾けている。ナンバー争い特有の必死さはなかった。
対する龍斗は、興奮が限界に達したのか泣いていた。姫の後にマイクをもらったコメントもぐずぐずだった。ホストはこういう時こそ、姫に感謝を言わなければならないはずなのに。
立場は完全に入れ替わっていた。
「そーんなそんなァ! 龍斗くんから一言もらったということで! 乾杯コールいくぞ!」
MCが会場のボルテージを上げる。掛け声とともに、龍斗たちの乾杯をレオも盛り上げた。
龍斗はリシャールの一本を掲げる。そのまま、口に運んだ。ビン底を持ち上げ中身を飲み干した。見事なビンダだった。心の底から嬉しそうだった。
自分はこれほど喜べるだろうか。レオの心に疑念が浮かぶ。
龍斗への羨ましさよりも、恐ろしさが勝っていた。ホストであれば、この瞬間は喜ぶべきだろうが、レオには彼女の行動が花火大会で上がる最後の大玉花火のように見えた。
煌びやかな大輪の華が、夜空に咲き誇る。ホストたちは憧れ、姫たちは息をのむ。
打ち上げた姫は満足するだろう。そのホストは次を待ち侘びる。
次が二度と上がらなければどうなるか? 待ち続けるホストの姿は救いようがない。どれほど売上を上げても、あの瞬間だけを思い続ける日々。未来を歩く先は色を失う。灰色となった人生だ。
その瞬間は傍観してる自分にも来るかもしれないのだ。その考えは、レオの心臓を縮み上がらせる。
「ごめんね……わたし、あんな風にレオくん喜ばせられない……」
コールが終わり、レオがテーブルに戻ると、女は泣きはじめた。
「お前が夢見るようなモノじゃない」
レオは女の手を掴んでいた。知らぬ間に手に力が入る。
沈黙が過ぎていく。店内の音楽が激しくなった。店内のディスプレイには残り時間がカウントダウンされ、MCは姫たちの競争心を煽る。
その日の売上が確定した。
【続く】
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