
地雷拳(ロングバージョン29)
承前
姫華は龍斗のマンションにいた。リビングにはテーブルと、64型のテレビ、ソファ家具だけが置いてある。部屋にあるものは黒色で統一されており、家具の少なさも相まって、部屋の広さを強調していた。
つけっぱなしにしているテレビでは、覇金グループの事業について専門家が解説しているところだった。
「ひめ、ありがとう」
龍斗は姫華を後ろから抱き寄せる。
以前、ラポールに襲撃された時の記憶は、今日の出来事で記憶の外に押し出されているようだった。
それもそのはずだった。2位の一条レオ主任の売上を大きく離し、姫華たちはナンバーワンに輝いていた。
「初めてトップに立てた」
「よかったね」
「俺、これからも頑張るから」
「応援してる」
姫華は肩にもたれかかる龍斗の頭を撫でる。
エヴァンジェリンでも歴代最高の売上だったらしい。歴史をつくったと思うと、なんとも気持ちがよかった。
「あたし、ちゃんと本命になれてる?」
「当たり前だろ。お前でなれなかったら誰も……」
「そっか」姫華は身体を起こす。もう悔いはなかった。
「……このお金さ。好きに使ってよ」
姫華はスーツケースを龍斗の隣に置いた。
「私、担当切るね」
姫華が何を言ったのか、龍斗は分からないようだった。
「……は?」
顔をぽかんとさせていた後、しばらくして龍斗は呟いた。
「……だってこれからだろ?」
「まだまだ龍斗は上を目指せるよ。でも、あたしはそこにはいない。自分のことが大嫌いな時、龍斗にいっぱい救われた」
龍斗は姫華の言葉を待った。
「でも救われてばっかりじゃ、あたしは強くなれない」
姫華はまっすぐ玄関に向かった。
「意味わかんないって」
龍斗が追いすがる。
「おい、ふざけんなよ!」
龍斗は姫華の肩を掴んだ。姫華が振り返ると、ばちっと肉を打つ音がした。
頬に龍斗の拳が入った。姫華の首がぐんっと右を向いた。ウェーブがかった黒髪が顔にかかる。
「……痛」
姫華は何事もなかったように笑う。
龍斗は自分の拳を見て唖然とした。彼の拳は中指の骨が折れてへこんでいた。殴り慣れていないせいもあるが、何よりも相手が悪かった。鋼の戦士と拳を交わし続けていた姫華にとって、無意識に相手の拳を砕く角度に頭を傾けるなど造作もなかった。
「ひっ……」
龍斗の喉から笛のような音がした。一瞬の間のあと、癇癪を起こしたように龍斗はテーブルを蹴った。
「ふ、ふざけんなよ! 勝手にカッコつけて帰ろうとしやがって! そもそもこんな金、どこから持ってきたんだよ」
姫華は黙って龍斗を見ていた。化粧を落とした彼の肌は飲酒と不摂生がたたってニキビが浮いていた。
ゔ、と震えて、テーブルから吹き飛んだ龍斗のスマホが光った。
「盗んできたとかないよな? 人殺したとかないんだよな? おい」
龍斗は構わずまくしたてた。クラブで見る余裕はなかった。姫華の頭の中が、冷たい空気が入り込んでくるように冴えていく。龍斗はこの口で同じように夢を語り、好きだよって言ってくれてるんだっけ。
「本当に本当にさ……俺、頑張るから、行かないでくれよ……」
「龍斗なら一人でやれる」
「俺には姫しかいないんだよ……」
またスマホが振動した。
「見なくていいの?」
「いや……今は姫と話してるし」
「そう?」と姫華はスマホを拾い上げる。龍斗は止めようとするが、折れた手がそうさせなかった。
通知は他の女からのラインだった。名前は一度も見たことがない。インスタのフォロワーにもいなかった子だ。おそらく本カノなのだろう。
ああ、あたしちゃんと好きだったんだな。
姫華はタワーを建て、龍斗に別れを告げて帰るつもりだった。好きな気持ちはなくなったから、もう何を見ても傷つかないと思っていたのに。胸の中がじんわりと痛くなる。
「……家に遊びにいく予定だったんじゃないの」
「違うんだ。聞いてくれ」
姫華が龍斗をまっすぐ見つめる。
「何が、違うの?」
姫華を見る龍斗に怯えがあった。
「待てよ、りか……あっ」
姫華は自分の名前を間違えたのを聞き逃さなかった。こんなタイミングで間違えてしまう龍斗が哀れに思えた。
姫華は呼吸を整えた。何度も息を吸って吐いてを繰り返した。
もはや言葉は要らない。ただ、目の前の因縁を晴らすのみだ。
姫華は右脚を退げる。腰を捻り、右腕を引いた。弾丸を装填し、撃鉄が上がったような緊張感を帯びた。
「ふざけんな……!」
龍斗は拳を振り上げる。やぶれかぶれで肩が上がってしまっている。カンフーロボ達の掌打を見てきた姫華にとって避けるのは簡単だった。
だが、姫華は避けない。これで終わらせる。
「おかげで吹っ切れたよ!」
お手本になる逆突きだった。拳はまっすぐ龍斗の胸に打ち込まれた。薄く痩せた身体が好きだった。抱き寄せた時の骨張っている感触が好きだった。朝起きた時に、一人なんて無理と思ってた。
でも、もう大丈夫。
「しゃあっ」
姫華は当てた拳を捻る。正確に芯を撃ち抜いた。龍斗の身体が吹き飛ばされた。背中が窓ガラスを破る。大きな音を立て、ベランダの柵に叩きつけられた。あっけないほどに関係は終わってしまった。
「加減はしたよ。……でも鉄ばっかり殴ってると加減がわかんなくなるね」
姫華は笑った。今日はすこぶる気持ちがいい。
「生きてる?」
「う……」
龍斗は呻いていた。身体をくねらせているが、なんとか生きている。
ベランダから夜風がそよぐ。カーテンが揺れ、隙間から月が見えた。少しだけ欠け始めていた。
「ありがと」
姫華は部屋を後にした。
歌舞伎町を今日も姫華は歩く。身体がやけに軽い。厚底のパンプスでどこまでも歩けてしまいそうだ。
「お姉さん! 初回5000円だよ!」
金髪の鼻筋の通った青年が声をかけてきた。ホストクラブのキャッチだろう。
「どんなタイプが好きです?」
「あたし、今お金ないんだけど」
「全然、全然! 半分、俺出すんで」
このキャッチは目が肥えている。自分の損よりも後々に姫華が太客になるを見抜いているのだろう。
姫華が感心していると、すっと手が伸びて話を遮った。仕立てのいい黒いスーツに身を包んだホストが立っていた。
「路上のキャッチは違法だよ」
美空だった。パーマのかかった髪をセンターに分けており、肌は雪を思わせる白さだった。洗練された雰囲気を醸し出しており、空手家の一面があるとは一目では考えもつかない。
キャッチの青年は首をすくめて立ち去った。去り際にも、「いつでも待ってるんで!」と声をかけてきた。肝が据わっていると姫華は感心した。
「すっかりホストっぽくなってんね」
姫華は美空を小突いた。
「君のおかげさ。俺も夢を見つけたんだ」
「なに、教えてよ」
「笑わない?」
「もちろん」
美空は咳払いをして答えた。
「……強くてかっこいい男になる」
「なにそれ、最高じゃん」
「真に受けられると恥ずかしくなる」
美空は頭を掻いた。香水の匂いが漂い、子供っぽく照れる美空とのギャップがおかしかった。
「この後、店に寄るか?」
「ありがと。ちょっと歩いてからまた行くね」
姫華は手を振って夜の街を歩いた。
ギラギラと輝くネオンに、ずらりと並ぶコンカフェ嬢。自分の日常が帰ってきていた。
誰に聞こえるでもなく、姫華はため息をつく。勝手に闘いに引き摺り込んできた姉はあれからも姫華に応じなかった。
「……あたしもでっかい夢が欲しいな。……そうだ、ホストクラブつくっちゃおうかな。ねぇ、どう思う?」
頭の中で喋らない姉に囁いた。構わず姫華は話し続ける。
「今のあたしならやれる気がするんだよね。それでいーっぱい儲けてさ、研究所とか立てんの。それで姉を呼び戻して、今度こそ説教してやる」
──姫華ちゃんにできるかな?
街の喧騒の中、姫華は振り返った。眼鏡をかけた女子高生風の風俗嬢の看板が笑いかけてきた。ブレザー姿は姉の学生時代を思い出して、少しだけ泣きそうになる。
「……やるっきゃないでしょ! 人生はバチクソに長くて一瞬なんだから!」
姫華は拳を突き上げる。その拳は見えない壁を打ち砕く勢いがあった。
【了】
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