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BOBCUT〈8〉

〈illustrated by おばあちゃん5歳〉

承前

 パリン!
 甲高い音が店内に響く。
「ハッハ!まだ慣れんかい」
 老婆は楽しげに笑いながら皿を洗う。年季の入ったエプロンには白い字で「喫茶ぱ~ぷるれいん」と書かれている。「ぱ」の〇が消えかかっていた。
「......すいません」
 髪文字は不服そうに塵取りを持ってくる。雨でずぶ濡れていた髪は艶を取り戻し、老婆と同じエプロンとサイズの合わないTシャツの袖を何重にもまくっていた。
 髪文字とチエは起きて早々、この老婆に風呂に突っ込まされて髪を梳かされ、ドカ盛りのナポリタンをふるまわれ、用意させられた着替えに身を整えさせられ、あとはひたすら喫茶店の手伝いをさせられていた。最悪の記憶で怒りを取り戻したと思ったらなんなんだ。怒濤の世話焼きに髪文字は身を任せるしかなかった。
 失った右腕の代わりを左腕に任せるにはまだまだ早かった。割った皿はこれで8枚目。皿すらろくに持てない。ゴミをかき集めるだけで5分もかかる。これでも早くなったほうだが。髪文字の口からは自然と舌打ちが漏れていた。
「私やろうか」
「やれるから。いいよ」
「あんたはテーブル拭いとくんな!」
 チエが何度も振り返りながら、ふきんを取りに行くのが視界の端に見えていた。髪文字から舌打ちがまた漏れる。
「この世で一番不幸な女の面だね。拾って大正解だよ」
「......余計なお世話ですよ。」
「ハッハ!そりゃあたしゃ世話焼きだからね。サテンは副業みたいなもんさ。」
「あたしらが追われててもですか」
「関係ないね。」
「変な人」
「ふふっ」
 いつのまにか戻ってきたチエが笑った。
「なんか可笑しかった?」
「別に」
「正直に言っていいよ。怒んないから。」
「怒る人が言うやつじゃん。」
「怒んないから。」
「......なんか髪文字さんも普通に喋るんだなぁって」
「は」
「ほら!だってこれまでずっと全部が敵って感じだったし。」
「そんなことない」
 髪文字は空々しくならないよう言ったつもりだった。が、左拳は白くなるくらい握りしめていた。銀のハサミ、K区の連中、黒頭巾の権蔵、そして......宿凰院奪徳が脳裏を過る。
 食器を片づける音と、水の流れる音だけが会話の溝を埋めるように流れた。
「よし!片づけ終わり!」
 老婆は自分をねぎらうように拍手した。
「あんたたちのおかげで普段の5分は短くなったね」
「良かったです。」
 髪文字はぎこちなくエプロンを脱ぎ始めた。長居するわけにはいかない。いつまでもこの見知らぬ節介老婆の迷惑になるわけにもいかなかった。そして、カナとユキのためにも。チエがそそくさと出ていこうとするところから見ても同じ心境のようだった。
「おや、もう出てくのかいあんた達。」
「すみません、急いでるので」
「ごめんなさい」
「ちょいと待ちな!」
 髪文字が、ハンガーに干した制服に手を伸ばした時、老婆はひと際大きい声で呼び止めた。
「あんた達最後に付き合っとくんな」
「いや、でも」
「それ、権蔵にやられたんだろ」
 薄笑いを浮かべながら、老婆はちょいちょいと指差した。
 チエの眼は丸くなった。どうしてそれを。とっさに髪文字はキッチンの包丁に目を移した。老婆は察知したのか、目にも止まらぬ速さで包丁類を移動させた。
「まあ、ついてきな」
 有無を言わせぬ老婆の背中に、髪文字はただならぬものを感じた。今はついていくしかあるまい。チエもまた覚悟を決めたようだった。
 老婆がキッチンの一番奥の下の棚を開くと、風が通り抜けた。斜面があり、抜け道のようだった。慣れたように老婆は滑り降りてゆく。
 ただの喫茶店になんでこんな仕掛けが……?疑問をよそに、髪文字とチエも両足を斜面に投げ出した。腕で加速をつけ、滑走する。風を切る音。浮遊感。暗闇だがかなりのスピードなのは間違いなかった。髪文字の腰にギュッと腕が回された。チエの腕だった。
「どうせ全員敵になるなら私、最後に髪文字さんの敵になるから。」
 チエは髪文字の耳元で言った。髪文字が振り返るまで斜面は続かなかった。
 いきなり滑走から投げ出され、周りを見回すと老婆が待っていた。
「行くよ」
 老婆が先行し、髪文字、チエの順番で廊下を歩いていく。ただの喫茶店の下に巨大な構造物が収まっていたのだ。目を白黒させるチエの手を取り、髪文字は老婆についていく。
 廊下は白で統一され、床には赤いカーペットが敷かれていた。そして、時折、人の顔を象った石膏が額縁に入り飾られていた。
「コレ、何ですか」
「デスマスクさ」
 こともなげに、老婆は返す。
「みんな強かった。あたしの自慢の弟子さ。」
 目の前に両開きの扉が見えた。それにつれて重低音のリズムがチエたちの耳に届いた。
「子供みたいなもんだよ。おっ、今日の曲はControversyだね」
 そう言いながら、老婆は自分のボブカットを剥がす。下から紫のコーンロウが露わになった。
「ウィッグだったんですか」 
「言ってなかったかい?」
 重低音がズンズンと頭蓋を揺らすまでになる。老婆の変わりようにチエと髪文字が釘付けになるのも構わず、老婆はゴム手袋を脱ぎすて腕をまくり上げた。
 老婆の両腕は義手だった。古めかしい木製で左腕に「Chelsea」、右腕に「Rodgers」と凝った装飾で彫られていた。
 老婆はわしわしと義手の動きを確かめてから、扉を押し開けようとして、立ち止まった。
「名前言ってなかったね。あたしの名前は郊外。郊外っつうんだよ。あんた達は?」
「髪文字烏羽です。ウバは烏に羽です。」
「久米チエです!」
 不敵な笑みを返すと、郊外は扉を押し開けた。
 蓋をされていた音の奔流が3人を飲み込む。体中をギターとボーカルの声が貫き、ドラムは内臓を震わせた。
 地下に広がる広大な空間で、髪型も様々な男女がビートに身を任せる姿がチエたちの目に飛び込んだ。
「ここはね、K区の抑圧から一時でも自由になれるクラブ……C/D〈Chaos and Disorder〉さ。」
 郊外がフロアの中央で止まると、男も女も尊敬のこもった視線を送っていた。それはチエと髪文字に郊外がここの支配人だと否応なく勘付かせた。同時に、新入りを見るなめスカした視線が注がれてるのを髪文字は感じた。
「やらなきゃダメみたいですね。」
「悪いね、新入りはみんなあたしと手合わせすることになってんのさ」
「まだ入るなんて言ってないです」
 そう言いつつ、髪文字はすでに秘修羅の構えを取っていた。
「チエ、ここは……」
「私だってやるよ。もう逃げるのはうんざり」
 どこから持ってきたのか、チエはビール瓶をかち割った武器を手にしていた。
「ハッハ!いいねぇ。滾る。滾るよ。」
 郊外は破顔すると、人差し指と中指のみを突き出し、腰を落とした。
「いくら世話焼きでも加減は効かないよ?」
 プリンスが「Controversy!」と歌い終わったと同時。3人は動いていた。
(続く)

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