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地雷拳(ロングバージョン13)


承前

 姉は頭が良かった。きっと今思うとそれは正確に姉を表せてはいない。自分のやりたいことがあって周りに関係なく進んでいく姿を「頭がいい」という言葉に当てはめていた。
 なんでも決められる彼女が羨ましかった。好きなことを見つけられる彼女になりたかった。
 迷ってばかりの自分自身と何度も比較した。
 劣等感を抱いたまま姫華は成長した。大学生のとき、初めてホストクラブに友達と一緒に行った。全然楽しくなかった。会話は弾まず、強引なホストの態度が気に入らなかった。あの時は何がカッコいいのか全然分からなかったのに。
 その後、地下アイドルにハマった。それは友達が行く予定だったのを代理で行ったものだった。姫華は彼氏と喧嘩した感情を紛らわせられればそれで良かった。嫌なことから目を背けるように煌びやかな光に魅せられるまま落ちていった。初めて楽しいものが見つかった。そう自分に言い聞かせた。その友達と疎遠になっても続いた。
 新しい友達が出来た。また離れた。追っかけていたアイドル達は子供がいることをバラされて解散した。姫華だけが残った。寂しさを紛らわすためにホストクラブの初回に通った。ぎらついた照明は姫華の心を照らした。薄暗い店内は嫌だった自分の性格を覆い隠した。ホスト達と会話する間は惨めな自分の声から耳を塞ぐことができた。それでも最後は姫華が残った。今もそうだ。カンフーロボがやってきて龍斗を奪おうとしている。
 命がけでも彼は振り向いてくれるのだろうか。
──関係ない。
 自分はまた大好きなものを失おうとしている。それを否定できるうちは否定するのだ。
 姫華が目を開けると天井があった。灰色の石膏ボードが姫華を見下ろしている。どこかから香水の匂いが漂っていた。
 汗で身体が濡れていた。気だるく、手足が重たかった。背中には固い革張りのソファの感触があった。視線を下に向ける。灰色の扉が閉まっていた。
 扉の向こうから人の声が聞こえた。時折、人影が見えて笑い声が聞こえてくる。
 タオルケットが身体に掛けられている。寝かされているのだ。どこかの事務室のようだった。
 ごろりと姫華は寝返りをうつ。全身が石のついた万力で押されているようだった。闘いから離れた身体は、忘れていた傷を思い出しつつある。
 脳内の姉は何度か呼びかけても返事がなかった。姫華は視界に集中する。アルミ製のロッカーが並んでいる。この香水の匂いは知っている。ペンハリガンだ。不意に扉が開いた。入ってきたのはホストだった。
 雪山を彷彿とさせるブリーチした髪がセットしてある。服はブランド物の黒いパーカーを身につけていた。
「おはよう」
「う……」
 姫華は起きあがろうとすると脇腹が痛んだ。思わず顔をしかめると、ホストが姫華に駆け寄ってきた。
「無理しないで。肋骨が二本折れてる」
「ここは……」
「ロッカールーム。倒れてた君をヘルプに運ばせた」
 そう言って彼は名刺を取り出した。白地に銀箔を押したフォントで「美空」とあった。
「ミクです。Club Skyの支配人をしている」
「......どうして運んで来たの」
 姫華は訝しんだ。
「救急隊でもないのに運ぼうとする奴がいた。俺が声をかけたら全員鉄でできていた。怪しいだろう?」
「まさか生身でカンフーロボと……?」
 美空は拳を見せて笑った。
「仕方なくね」
「あんた一体」
 姫華が身体を動かすと、また骨が痛んだ。
「無理しないで休んでいくといい」
「あたしは覇金グループを潰すんだ」
 姫華が無理矢理立ち上がる。すぐに美空が止めた。
「姫を守るのがホストだから」
「あんたの姫になった覚えはないよ。一銭だって払ってないんだから」
 美空と顔が近づいた。近くで見ると化粧が粗い。色黒な肌を無理矢理誤魔化していた。明るすぎるファンデーションを使っている。パーツは悪くない。この男は自分の見せ方を知らないようだ。
 止めようとする美空の手を払おうとした瞬間、手が触れた。
「拳タコがある……。空手をやるのか」
 姫華は拳を隠した。美空の口角が上がっていた。
「だったら何?」
「見せたいものがあるんだ」
 美空は手を差し出した。姫華の身体が引っ張られた。不思議と強引さはなく、痛みに軋んでいた身体が軽い。美空が身体にかかる重力を消しているような気がした。
 一体何者なの?
 姫華の疑問をよそにロッカールームの扉が開いた。
 控室とホストクラブを結ぶ廊下は狭い。美空の手を取りながら、姫華たちは歩く。通りすがるホスト達が、美空に元気よく挨拶をしてきた。
 冷蔵庫群と高級ブランデーの棚の横を通過する。ホストクラブの店内は開店間近だ。続く廊下を、右に曲がった。エレベーターが待っていた。
「ビルは5階まである。ここは4階」
 エレベーターに乗り込む。美空はB1のボタンを押した。ランプが下降し、3階で止まった。ホスト達が会話しながら入ってくる。
「3階と2階はヘアメイク」
 ランプは階を刻み、一階でホスト達はどやどやと降りていく。 
「1階は他店のホストだ」
 エレベーターの中は美空と姫華だけになった。
 ランプが到着を知らせる。
 ドアが開くと目の前には木の柱が続いていた。床は玄武岩を敷き詰めている。一見して料亭を思わせる佇まいだ。
「ここは」
 姫華が美空を見る。美空は「押忍」と短く呟いた。
「ここは道場だ」
 CLUB Skyはホストクラブと空手道場を併設していた。
「店のトラブル、ヤクザのシマ同士のぶつかり合い。歌舞伎町の争いは絶えない。ホストも、守る力を持たなければならない」
 姫華たちが奥に進む。襖を開くと広い空間が現れた。床の畳は綺麗に掃除が行き届いていた。掛け軸の上には、神棚があった。
「俺はここで彼らに空手の技術を教えている」
「ホスト空手軍団ってこと」
「君にはこれから稽古をしてもらう」
「ええ?」
 ほどなくして道場には年若いホストたちが入場してきた。口々に「押忍」と言って頭を下げた。ほんのりタバコと酒の香りがした。姫華は驚いた。彼らは、営業終わりに来ているのだ。十代も多い。道場はたちまちホストでいっぱいになった。
「押忍! 全員揃いましたッ! 美空サン、お願いします!」
 黒スーツの銀髪のホストが、美空に頭を下げた。
「構え」
「押忍!」
「空手はシャンパンコールだ。形をひたすら繰り返し、自分の血肉にする。そうして長い間培った実力をいつも通りにやる。魅せようなんて思うな。やることに変わりはない!」
「押忍!」
「はじめッ」
「押忍!」
 ホストたちが一斉に正拳突きを放った。何十個もの拳が空気を押し、風を生み出す。さらに前蹴り、中段突きを繰り出す。掛け声が道場に響く。スーツの擦れる音は滝の流れる音に似ていた。
「カンフーロボと戦う君を見た。そして拳タコ......間違いなく強い。だが、身体がついてきていない」
 美空の拳が姫華の顎に触れていた。姫華は息を呑んだ。美空が動いた気配はなかった。
 思い出したのはポモドーロとの戦いだった。不気味なまでの素早さ。背筋が冷たくなった。表情に出さないようにして姫華は拳を払った。
「拳の速さは関節の連動の結果だ。関節のつながりを意識しろ。それで初めて相手の意識の隙間を縫える。まずは稽古だ。打ってみろ」
 美空はスーツの胸の辺りを叩いた。
「本当にいいの?」
「ホストに本気は出せないか?」
 姫華は腰を落とす。
「まさか」
 右拳をいっぱいまで引き、思いっきり腰を捻る。勢いは最高だ。ライフルじみた拳が、美空の胸を打ち抜いた。
「あんた……本当に空手家なんだ」
 美空の身体は微動だにしなかった。
 姫華の拳は、美空のスーツにすら触れていなかった。スーツの手前、1ミリほどで止まっていた。
 美空の右足が、姫華の膝下に触れている。ただそれだけだった。
「足首からひねりを入れていないな。身体への意識がまるで足りていない」
「嘘。ちゃんと打ててたはず」
 美空は曖昧に笑い、首を振った。
「空手には型がある。君は頭の中で完璧にイメージできている。でも、それだけじゃダメなんだ。君自身が、身体の使い方を知っていなければならない」
 今度は美空が構えた。姫華の手を自分の拳に当てた。
「今から打つ。止めてみるんだ」
 美空の言葉は、あまりに簡単に思えた。
 姫華は掌の拳の動きに集中した。少しでも動いたら拳を握る用意ができていた。
 周りの音が消えた。意識の揺らぎを振り払う。その瞬間、美空の拳はぴたりと顎に触れていた。
「もう一回」
 再び試しても、結果は同じだった。
「基礎から覚えていこう」
 美空が構えた。力を適度に抜いた半身の構えだ。自然に、元からそのような形だったような納得を姫華は覚えた。
「はっ」
 美空が息を吐くと拳が消えた。ビル風に似た突風が姫華の顔を打った。
「……すご」
「君ならすぐさ」
 それから美空は姫華につきっきりで指導した。適当に開いていた足の間隔、拳の位置が直されるにつれて力があるべき場所に置かれるような感覚を覚えた。
「それじゃあ、続きだ」
「全力で来ていい。時間がないんだろう」
 美空は生身のはずだ。それでも姫華は彼に一度も打撃を入れられなかった。打つべき対象はあるのに選択できない。そんな感覚が歯がゆかった。
「あんた、ホントにホスト?」
「今はお茶引きだけど」
「そうじゃなくて。その拳」
 姫華は練習のうちに気が付いた。美空の握った拳は、骨が潰れて、クリームパンのように丸くなっていた。
美空が伊達に空手をホストに教えているのではない。その証左だ。
「これじゃあ、確かにホストは名乗れないかな」
 自嘲気味に笑う彼の隙を逃さず、正拳を放った。
「肝心なのは形だよ」
 美空は余裕ありげに構えをとった。爪先が内側に向いている。腰が自然に落ちていた。筋肉に力が入りすぎていない、美しい立ち姿だった。
「しっかりと重心を安定させていれば、最小限の動きで受け切れる」
 姫華は肩を押されたように後ろに転がった。美空は腰を左に捻っただけだった。
「空手家は構えに出る。必要なのは身体、技術、精神だ。達人の域に達してる人は三つの均整がとれている」
「簡単に言ってくれる......」
 夜になってようやく指導は終わった。身体が熱い。汗で背中に服が張り付いている。けれど、その熱ささえも心地よかった。汗をかくのは最悪だ。メイクは崩れるし、べとついた服の生地は気持ち悪い。それでも、相手をぶちのめせる力がつくのは何にも代え難い楽しさがあった。

(続く)

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