エンの眠るまえに
涙が出ない乾季は遠くを見がちになる。青々とした山のふもとでエンが歩いていた。大きな体を揺らす姿がもの珍しいのは3日だけだった。
ピロティに風が吹く。砂利のすきまで雑草がそよいでいる。午前中よりも涼しくなり、嫌でも文化祭の終わりを感じさせた。
私たちダンス部のショーケースは無事に終わった。これで三年生は引退する。
来週から有紗さんは部活に来なくなる。当たり前の事実に、胸の奥が重くなった。有紗さんに会えなくなると思うと、涙季でもないのに目がむずむずしてきた。
スマホが振動した。通知だけで心臓が高鳴る。【うん】有紗さんのLINEだ。もうすぐ彼女がやってくる。
上階の小体育館では、家庭科部のファッションショーが始まっていた。くぐもった音で流れるBLACKPINKに身体を揺らす。はやる気持ちを無理矢理おさえ、私は最後の確認をはじめる。
スマホのインカメラを起動して左右に目を動かす。振付を夜まで通したせいで、充血が酷かったけれど、縁ありのカラコンが上手く隠してくれている。
下まつ毛を描いたのも大丈夫、滲んでいない。二重は最高とはいかないけど、80点はあげられる。アイラインも引き直した。自分で言うのもなんだけど、世界で一番上手く引けたかもしれない。新品ではなく、普段のライナーに変えて正解だった。
コンシーラーは一番明るい色で目を囲んでみた。インスタで流行ってたやつだ。半信半疑だったけれど、自分でも驚くくらい目が大きくなった。
いつもなら滲んでしまうメイクも今は私を変えてくれている。他県の子なら普通にやってるんだろうな。やっぱり涙季は最悪だ。
街の季節は-涙季《るいき》と乾季に分かれていた。エンが目覚めている五月だけが乾季。それ以外は涙季だ。この街の住人は涙季の間中、涙が出続ける。みんな目をべしょべしょにしながら登校してくる。目の下に涙避けシールを貼らないと授業にならなかった。おかげで運動部のほとんどが振るわず、文化系の部活が盛んになった。
ダンス部は文化系のくくりだったけれど、涙が飛ぶから、入部する人は少なかった。私は昔からヒップホップをやっていたから、深く考えずにダンス部を選んだ。
最初に有紗さんに会ったのは仮入部の時だった。練習で使う教室に行くと、逆立ちしている二年生の有紗さんがいた。
「ども」
「……す」
私の挨拶に、彼女は消え入りそうな声で応じた。声をかけようとすると、有紗さんは教室を出ていってしまった。
なにあれ、感じ悪。それが彼女への第一印象だ。
有紗さんの踊るジャンルはブレイクだった。小柄で普段は気が弱そうなのに、ステージに立つとステップを踏み、パワームーブだってかました。
有紗さんのパワームーブは抜群に上手い。高校から始めたとは思えなかった。有紗さんと比べると、他校の子は床でジタバタしているようにしか見えないくらいだ。ビートに合わせて風車のように回る有紗さんは、みんなの憧れだった。
そんな彼女を私は遠巻きに見ていた。単に気に入らなかったのだ。私と目を合わせないし、部活はいちばん先に帰る。天才を演じたいのかもしれないけど、鼻につくだけだ。
部室で着替えていると、決まって同期たちは先輩の話で盛り上がった。
「有紗さんヤバいよね。カッコよすぎ」
違う。あのくらいなら小学生からもういるよ。
「ね。私もブレイクやろうかな」
やめな。あんたがやっても下位互換もいいとこ。てかリズム練やれ。
AirPodsの音量を限界まで上げて部室を出るのが私の日課になっていた。有紗さんの話を聞くと無性に苛立った。
ある時、それが大嫌いに変わるときがあった。去年のクリスマスイベントだ。私のジャンルの出番は有紗さんの次だった。私だってダンスは好きだ。振付は最終日まで妥協しなかった。間違いなく観客を沸かせる自信があった。いま思えば、他の子に有紗さん以外にもヤバいやつはいるって教えたかったんだと思う。
最後の振りの確認をしていると、出番が終わった有紗さんが通りすぎた。私はフロアに戻る彼女を見送ろうとした。
でも、そうはならなかった。
自分の番が終わると有紗さんは帰ろうとしていた。舞台袖で頭を軽く下げて外に出ていく背中を私は目で追った。
頭が締めつけられる気分だった。無意識に息を止め、気がつけば有紗さんを追いかけていた。止めようとする手を振り払う。街灯の下、早足で歩く有紗さんを見つけた。私は肩を掴んだ。ふざけんなよ。そういって彼女を振り向かせた。
有紗さんの両目から頬にかけて赤い筋ができていた。とろとろと流れるそれは枝分かれして支流をなしていた。
赤い涙だった。血と涙が混ざって夕焼けのような色合いだった。
入部してから有紗さんと初めて目があった。彼女の目は非難するように大きく見開かれる。涙は彼女の顎を伝って地面に赤い花を咲かせた。
走っていく有紗さんの背中が小さくなる。
私はしばらく立ち尽くしていた。有紗さんが、さっさと帰る理由も、部活で素っ気ない態度をとるのも理解した。原因は過度な練習だろう。常人離れしたパワームーブのために血を流しても逆立ちし続ける有紗さんの姿は想像に難くなかった。
彼女は天才なんかじゃなかった。
地面に落ちた涙が車のヘッドライトで照らされる。影をつくり、赤さが際立つとステージに立つ有紗さんに見えた。
山の向こうでエンが啼いた。打ちっぱなしのピロティの壁に甲高い声が反響する。明日にはまた涙季がやってくるのだろう。
最終確認は終わった。カメラを見て私は頷く。
大丈夫。乾季の私はちゃんとかわいい。有紗さんに会ってもいい顔になってる。
私はカメラに笑顔をつくる。
イベントの後から私を避ける有紗さんに会うには今日しかなかった。「引退前に」、「最後に」と強調した後、私は謝らせてほしいと頼んだ。
有紗さんがもうすぐやってくる。
そしたら有紗さんにたっぷり泣いてもらうんだ。クリスマスを思い出すたび、私の気持ちがおかしくなった責任を取らせるんだ。あの時の赤い涙が頭が離れないことをなじってやる。涙を流す有紗さんを思うと、黒い電流が全身を駆けめぐる。こんな風にさせたお前が悪いんだと罵倒するんだ。きっとたくさん泣いてくれるはずだ。
惰性で漏れ続ける涙季の涙よりも、乾季の涙は特別なものになるに違いない。だってそれは、エンじゃなくて私が流させる涙なのだから。
乾季も涙季も関係なく、私は有紗さんを好きになってやる。
あんたが目を合わせなかった私はかわいいってことを教えてやるんだ。
私はかわいい。かわいくて最悪だ。
涙季は最高だ。
【おわり】