翳す人
ジムの更衣室に戻ると、寺田さんがいた。寺田さんは少し強面だけれど面倒見が良く、トレーニングで知らないことならなんでも教えてくれた。いつもスウェットパンツに、紫色のランニングシャツの姿でいるため、遠目でもすぐに分かった。
寺田さんは重機のような腕を持ち上げて、しきりにお札を蛍光灯にかざしていた。
「こんにちは。何やってるんですか」
「ああ、前沢さん。これです。見てください」
寺田さんが私に見せたのは、よれよれの千円札だった。お札の右側には野口英世の肖像が描かれている。
裏返しても、引っかかるところはない。普段見る紙幣と変わらなかった。私が意図を汲めないでいると、寺田さんは白い歯を見せて笑った。
「ただの千円札じゃないんですよ。ほら、光にかざしてみてください」
青白い蛍光灯に千円札をかざして、私はようやく意味が分かった。
千円札の中央、野口英世の透かしがあるべきところが空白だった。外枠の楕円があるだけで、どれだけ角度を変えても何も映らない。透かしても蛍光灯の色をぼんやりと黄色く変えるだけだった。
「なんですかこれ」
「さあ、僕にも分かりません。気がついたらポケットに入ってましてね」
「偽札を掴まされたんですか」
私の不躾な問いにも怒らず、寺田さんは首を振った。
「いやぁ、まだ分かりませんよ。もしかしたらエラー品かもしれない。知ってます? 千円札のミスプリントが前に発見されたときは、15万円で落札されたみたいですよ」
「じゅうごまん」と何度も強調して寺田さんは言った。
「へぇ。じゃあ、この千円札はもっとレアなのかもしれませんね」
そう言いながら、私は全く信じていなかった。紙幣は印刷物の中でも、最も厳しい検査を通り抜けているはずだ。一度、ミスがあればさらに厳密なチェックが行われるに決まっている。ましてや、透かしに不備があるなど初歩的すぎてあり得ない。寺田さんには悪いが、偽札でないほうが不自然だ。だが、寺田さんの子どものように笑う顔を見ると水は差せなかった。私が曖昧に笑っていると、寺田さんは肩をバシバシと叩いて嬉しそうにシャワーを浴びに行ってしまった。
2日後、私が腕のトレーニングを終えると同時に、寺田さんが話しかけてきた。
「前沢さん、大変だ。この前の千円札、やっぱり本物だよ」
敬語を忘れるほどに、寺田さんは慌てているらしかった。
私が言葉を挟む前に、寺田さんはポケットから財布を取り出し、二枚の千円札を見せた。トレーニング中の汗を吸ったせいか、千円札は少しだけ黒ずんでいた。
「本物の紙幣を見分ける箇所を調べたんだ。そしたら、全部一致していた」
そう言って寺田さんは、偽造防止用の紙幣の確認ポイントを、本物と比べながら一つずつ教えてくれた。特殊なインク加工、見る角度で変わる印刷。見る限り、透かしのない千円札は、本物の紙幣と同じ特徴を備えているようだった。
話している寺田さんはとても楽しそうで、自由研究を発表する子供のようだった。
私は「はぁ」「よかったですね」と相槌を打つが、寺田さんの講義は一向に終わらない。それどころか、さらに熱を帯びてきて、同じ確認ポイントの説明を繰り返した。
私は段々と寺田さんが疎ましくなった。
「寺田さん、寺田さん。本物なのはわかりました。でも、透かしって要は紙の厚さの変化でそれっぽく見せてるんですよね? じゃあ、透かしのところだけ、ヤスリで削ったら消せちゃうんじゃないですか? そうだったら通貨変造で疑われるのは寺田さんですよ? 通貨変造って無期懲役だってあり得ますよね」
紙の触り心地を確かめても、ヤスリで削ったような傷は一切なかった。けれど、私は苛立ちから一方的にまくし立ててしまった。
寺田さんの表情は見るからに曇った。反論するどころか重たい沈黙が流れた。居心地が悪くなった私はそのままジムを後にしてしまった。
それから数週間がたった。私は仕事のミスで立て続けに残業をしなければならなくなった。ジムに通えない日が続いた。
私は一度、寺田さんと話し合いたかった。説明してくれた千円札の特徴について聞く耳を持たなかったことを謝りたかった。頭から否定する私の態度は改めるべきだった。拗れてしまった関係を修復する機会が欲しかった。
ようやく仕事に目処が立ち、定時で仕事を終えた。電車に揺られている時も、頭の片隅で寺田さんのことを考えていた。
最寄りの駅で降りた時、自分が空腹なことに気がついた。空腹でのトレーニングを注意してくれたのも寺田さんだった。
久々にジムへ行く前に、駅前のコンビニに向かった。しかし、コンビニの入口まで数歩のところで、私は足を止めた。
窓に貼った「スタッフ募集」の文字の前に、老人が立っていた。夏の終わりの風に乗って老人から異臭がした。何日も放っておいた魚の水槽に漬けた雑巾の臭いだった。
老人は誘蛾灯に紙幣をかざしていた。枯れ枝のような腕を持ち上げ、口を半開きにしたまま何かを覗きこんでいる。
老人の服のサイズがまるで合っていなかった。身体はひどく痩せているのに、履いているスウェットパンツはだぶだぶで、紫色のランニングシャツは襟ぐりが胸元まで垂れ下がっていた。そこから見える肌は、眩しいコンビニの灯りでも分かるほど、くすんだ灰色をしていた。
私は圧迫感で息が苦しくなった。逃げられない。頭の中では寺田さんと分かっても、私は受け入れたくなかった。
私が立ち尽くしていると、不意に老人がこちらを向いた。
「ああ、前沢さん。お久しぶりです」
目やにで塞がりかけているが、老人の目尻の下がり方は寺田さんと同じだった。
「……お久しぶりです」
声の調子がいつも通りすぎて、普通に返してしまった。謝りたかったことを伝える前に、寺田さんは言葉を重ねた。
「前沢さん、この千円札、本物になろうとしてるんです。透かしが復活しました」
「復活した?」
透かしが戻るなら分かるけれど、復活とはどういうことなのか。寺田さんの黄色く濁った眼が私を見ているのに気づいた。疑問を言葉にしてしまえば、気分を損ねてしまうと思った。
寺田さんは「ほらここ」と千円札をこちらに向けた。
視界に紙幣が入った。私は視線を外した。見てしまえば、後戻りが出来なくなると思った。
だから、「見てないでしょ」と言われた時、耐えられずに私は背を向けて走った。背後では誘蛾灯がバチバチと音を立てていた。
全て見てしまったら、知ってしまったら、寺田さんのように生きたくなってしまう。そう直感したからだった。
それから、寺田さんに会うことはなかった。けれど、千円札を見た瞬間はいまだに覚えている。視界の端で見た透かしの部分には、うっすらと絵が浮かび上がっていた。けれど、それはどう考えても野口英世ではなかった。見覚えのある波打った髪と、肩までを写した肖像ではなかった。もっと線が細くて女性のイメージに近く、手のひらが写っていたような気がする。とにかく肖像になるようなかしこまった様子ではなくて、別の意図があるポーズをしていた。今こうして思い出したものを列挙しても、後から作りだした記憶なのか、考え直すのが怖かった。
私は紙幣を頭の上にかざすのが恐ろしい。なにかを頭の上に持っていくのは、自分を支配するものだと認識させる行為に思えてならない。透かしに映っているものが知らない何かだったとして、自分の方が上だとそれに認識させてしまったら、私は一生仕えなければいけない気がする。寺田さんはきっと自分より上の者を見つけてしまったのだろう。
自分でまともではないと分かっていても、そう考えてしまうのだ。
【了】
以前、第七回こむら川小説大賞によせて書いたものです。