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ボルゾイに血まみれ錦鯉をぶん回す

 浦井先生はボルゾイに似ている。輪郭がしゅっとしてるところなんてそっくりだ。高校時代はバレー部の主将だったらしく、筋肉質な身体はボルゾイの白くてがっしりした姿と重なる。
 他にもまだある。今日の先生は無印の白いブロードシャツを着ている。肌の白さとマッチしていてかなりボルゾイだ。
 そんな浦井先生が駐車場に倒れている。舌を出して目を半開きにして尻を突き出したまま微動だにしない。センター分けにした黒髪が血に濡れている。すぐ横に車のキーが落ちていた。駐車場に一台だけ止まった、先生のワゴンRの鍵だった。
 頭上で烏が鳴いた。
 私は自分の右手を見る。握っているのは、学校指定の白ソックスだ。小銭をぎっしり詰めたので先が膨らんでいる。先端には、赤い染みがある。ところどころローファーの色移りもあるため、白ソックスは錦鯉によく似ていた。
 誰もいない駐車場、凶器、そして浦井先生。これだけ見れば逮捕されるに違いない。
 だが、すべて5分前の浦井先生が悪いのだ。
 浦井先生がセブンで私に会いさえしなければ済んだ話だ。もっと言えば、セブンでファミリーパックのブラックサンダーを買おうとした女子高生なんか見るからこんな目に遭うのだ。
 私はブラックサンダーが大好きだ。あのじゃくじゃくした食感とチョコは、嫌なことをいつでも忘れさせてくれる。
 今日の私は運が悪かった。学校が霊の通り道だとまくし立てる友達、部活の高圧的な先輩、生徒会の仕事を丸投げする教師。全てが一日にやってきた。
 手遅れになる前にブラックサンダーの封を切った。私の血管が切れる前に頬張った。じゃくじゃくが頭から足まで一気に駆け抜ける。足りなければ、また頬張った。
 ブラックサンダーが瞬く間に解決してくれた。
 翻ってそれはピンチを招くことにもなった。手持ちのブラックサンダーが枯渇してしまったのだ。私は通学鞄の内側ポケットをブラックサンダーゾーンにしている。常に用意していた15本のストックが0本になっていた。
 私は学校を出てセブンに走った。とりあえず一本でもストックしておかなければならなかった。
 ひとつ言うなら、これは私にとって不本意な選択だった。コンビニで買うブラックサンダーは割高になる。スーパーで買えばもっと多くのブラックサンダーが買えるのは明白だ。
 私は今日という日を呪った。足を引っ張る有象無象のせいで損をさせられている。そう思うと誰彼構わずぶん殴ってしまいそうだった。
 私は必死にその衝動を抑えこむ。こうなったら、なるべく人を視界に入れないのが一番だ。視線を落とすと、棚の下、カントリーマアムやアルフォートが並んでいる中にそれを見つけた。
 黒地に巨大な雷が走る大袋。でかでかと特撮ヒーローのフォントじみて印刷された文字。
 ブラックサンダーのファミリーパックだ。
 スーパーでしかお目にかかれないものだと思っていた。
 高揚感を抑えつつ、私はしゃがんで顔を寄せた。包装には「みんなで満足! 158g」と書いてある。絶妙な数字と説得力をもつ文言は間違いなくブラックサンダーファミリーパックだった。
 どうして気づかなかったのだろう。自分の愚かさを、まざまざと思い知らされるのと同時に、これは今日の忍耐力が運んできた幸運だとも思った。
 私は「いただきます」と断ってから、ファミリーパックを抱き上げ、立ち上がった。ブラックサンダーゾーンに早く補充しよう。そんな考えは数歩も持たなかった。
 レジ前で浦井先生に出くわした。
 私は「ゔぉっ」と声を漏らした。浦井先生は二重の黒目がちな目を瞬かせて会釈してきた。普段の溌剌とした感じはなくて、ただきまり悪そうにしてレジへと進んだ。
 私は浦井先生の目を見ていたけれど、一度も目が合わなかった。彼が見ているのは私の顔より少し下。胸に抱いたブラックサンダーのファミリーパックだった。
 気づくと不安がむくむくと膨らんできた。
 こいつ、言いふらすんじゃないか。
 ブラックサンダーのファミリーパックだけをコンビニで買うなんて自分から雑談の話題を提供してるようなものだ。
 他のお菓子も持っていれば、友達と食べると言い訳がたつだろう。けれど、ファミリーパックだけはお菓子の選びとしては決め打ちすぎて不自然だ。
 そもそも、ファミリーパックをコンビニで買っている時点で、私は余裕がないとアピールしているようなものだ。多少、割高でもいい。この瞬間にブラックサンダーが食べたい、しかも大量に、という浅ましさを晒してしまったことになる。
 こんな面白トピックを放っておくはずがない。
 いつだってそうだ。過ちに気づくのは全部手遅れになった時に限る。
 後を追うように私もレジに並んだ。先に会計している浦井先生はタバコを買っていた。私の疑念は確信に変わった。
 職員室の喫煙所で天気の話やニュースの話が終わったら、絶対に生徒の話をするに決まっている。その場しのぎのために、興味をひければいいと思って「この前、コンビニ行って〜」と話し始めるのは想像に難くない。
 一度そう思ったら声まで聞こえてくるようだった。
 会計を済ませると、私は浦井先生を尾行した。
 ラーメンの臭いがする路地を通り過ぎ、駐車場に出る。人影はなく、ひっそりとしていた。
 浦井先生がワゴンRにキーを向ける。ヘッドライトが光った。
 今しかない。私は右足の靴下を脱いだ。財布をひっくり返して靴下に小銭を流し入れる。硬貨の音より速く、私は襲いかかった。
 たった一撃だった。腰をいれたおかげで、浦井先生は声も上げずに崩れ落ちた。ソフトクリームを持った子供が転ぶように、べちゃっと顔からアスファルトにつんのめった。
 一撃で仕留めたのは、私なりの慈悲だ。女子高生にいきなり襲われて死んだとバレたら、あの世で笑いものになるはずだ。
 私は事切れた先生を見下ろす。
 口がぽかんと開いている。また不安が心の中に渦巻きはじめた。浦井先生は本当に死んだのか。生きているのは一番まずい。後々の人生で一番の鉄板ネタにするに決まっているから。
 ──この前、女に殴られたんですけど……その子、ブラックサンダー持ってて(ここで相槌が入る)いや、それが(大きく息を吸って)ファミリーパックなんスよ!
 私は頭を抱えた。
 一度想像すると、先生の胸が動いた気がしてならなかった。逃げるタイミングを窺ってるんじゃないかと気が気じゃなかった。私は浦井先生からベルトを拝借して、首を絞めた。
 五回ほど締めて呼吸がないのを確認した。ベルトを鞄に仕舞い、白ソックスを持ち直した。
 ようやく浦井先生が、ボルゾイに似てると思う余裕もできた。あとは死体の処理だ。私は道に落ちたキーを拾い上げ、ワゴンRの後ろまで先生を引きずった。
 トランクに浦井先生の右脚を折り畳んでる時だった。不意に路地の方で動く影に気づいた。私が目をやると扉がバタンと閉まる音がした。
 じっとりと嫌な汗をかいた。シャツが背中に張り付くのが分かった。風に乗ってラーメンの臭いがした。
 休憩で裏口から出た店員が私を見たのか? それでも、ここから路地まで距離がある。夕方の暗さで何をしたかまではわからないはずだ。
 私は即座に自分の甘さを否定する。自分の思い通りになることなどない。もし店員が通報していたら? 人を殺した理由が、セブンでブラックサンダーのファミリーパックを買ったことだとバレたら? その後、私は生きていけるのか? 
 気がつくと裏口を蹴破っていた。生臭くて暖かい空気が顔を撫でた。厨房の寸胴から湯気が立ち上っている。豚骨の匂いが充満していた。
 呆けたようにタオルを巻いた男がこちらを見た。男はズボンを下ろし、尻を出していた。男の影に隠れるようにして女の店員がうずくまっていた。
 二人が私を見る目は、休憩から戻ってきた店員に向けるものと同じだった。慌てている素振りは一切ない。誰も通報していないようだった。
 ぐつぐつと豚骨が煮える音が厨房を満たした。
 私はもう引き返せなかった。
 一足飛びで男に向かった。無防備な顔に白ソックスを振り下ろした。当たった瞬間、鼻骨がごぢゅと鳴った。男はその場に崩れ落ちる。その拍子に手が当たり、寸胴が盛大にひっくり返った。豚骨の雨を浴びて女が金切り声をあげた。私はすかさず側頭部を打ち抜いた。
 金切り声のせいで店内がざわついた。私はカウンターに躍り出ると、流れで部活帰りの野球部の頭をぶん殴った。素早く店内を見回す。入り口までに客は五人いた。
 作業着のお兄さんとお姉さんは、まだ麺を啜っていた。席を立とうとしたおじさん二人は呆気に取られていた。
 厨房の男女を思い出した。ラーメンを食べた記憶ごと消えるように白ソックスの端を握った。遠心力よ。脳を洗ってくれ。そう願いながら私は彼らに振り下ろした。
 残る客はひとりだ。
 そう思った瞬間、後ろから肩を掴まれた。途轍もなく力が強い。肩の骨が軋んだ。思わず私は歯を食いしばる。白ソックスを振りかぶろうとしても無駄だった。身体が宙に浮いて私はメニューだらけの壁に押しつけられた。通学鞄とブラックサンダーのファミリーパックが床に落ちた。
「おい……」
 目の前に髭面が迫る。頭にタオルを巻いている。脂肪が座布団のように乗っかった厚ぼったい目で私を睨んだ。
「なんだてめぇは……」
 生温かい息が顔に当たった。
 私は目をそらさなかった。髭面の意識を誘いながら、床のブラックサンダーに足を伸ばす。あと5センチも離れていた。
「……サツでもなければ鉄砲玉でもねぇな。うちの隠し味で狂ったか」
 そう言って髭男は顎をしゃくった。私が殴ったおじさん二人が床掃除を始めていた。お兄さんとお姉さんは、眠ったまま緑色の粘液を口から吐いていた。
「まあ、効くよな……。ラーメン屋ってのは隠れた脳科学者だ。替え玉なんて脳みそそっくりだしよ。みんな涎垂らす調味料なんてチョチョイなんだな」
 それから髭面はべらべらと喋っていた。私のことを見ているようで微妙に視点が合わない。とにかく頭にある中身を陳列するように舌を回しつづけていた。
 私は足を伸ばし続け、ファミリーパックの端にようやく爪先が届いた。一気に足を引いたが、ファミリーパックは動かなかった。
 髭面の太い足が乗っていた。
「俺の話聞いてないな」
 厚ぼったい瞼の下の奥で、髭面の眼が暗い光を帯びた。柔らかい包装紙に足が沈み込む。私は首を振った。髭面が笑う。
「ラーメンさえあればいい」
 中のブラックサンダーが砕ける音が店内に響いた。潰れたファミリーパックが目に入る。聴覚と視覚情報が結びついて金色の花火が脳内に飛び散った。無意識に私の口から叫び声があがる。
 かつてない黒い感情が奔流となって全身を駆け巡った。
 どんどん悪化する現実と自分の馬鹿さが嫌になった。浦井先生を殴ったのが悪いのか。ラーメン屋を荒らしたのが悪いのか。
 ひとつも自分のせいだと思いたくもなかった。目の前にいる邪魔者に八つ当たりしなければ気がすまなかった。
 私の感情が髭面の腕を通して流れ込んだのか。私を押さえる力が強まった。髭面がもう片方の拳を握る。同時に、私は髭まみれの頬を張った。
 甲高い声をあげて髭男は手を離した。頬が血まみれだった。髭面が苦痛に歪んだ。
 メニューから剥がした画鋲を、私は頬に押し込んでいたのだ。
 白ソックスの端を強く握る。床を這う髭面の指へと振り下ろす。店の机を蹴り上げながら、床で悶えた。そのうちに、私はメニューからありったけの画鋲を引き抜いた。
 ふらふらと髭面が立ちあがった。眼は怒りに燃えている。
 私は股ぐらを蹴り上げる。今度は獣じみた叫び声が上がった。画鋲を開いた口に流し込み、顎に白ソックスを振り上げた。血まみれの画鋲が降り注いだ。髭面が起き上がることはなかった。床に落ちた画鋲はおじさん二人がすぐに片付けてしまった。
 白ソックスは錦鯉とはほど遠くなっていた。度重なる打撃で爪先から血が滴っていた。
 私はブラックサンダーファミリーパックと鞄を抱き上げた。関節がぎしぎし軋んだ。肩をぐるぐる回すとたくさん動いて血が巡った。気分はいくらかマシになった。
「うう……ううっ」
 私が殴り損ねた男がテーブル席で肩を震わせている。ストライプのジャージ姿に見覚えがあった。体育の川島先生だった。声をかけると震えが一層激しくなった。あまりに大袈裟にブルブルしていたので、私は家にあったおもちゃの犬を思い出した。スイッチを入れると震えすぎて下の階のお母さんに怒られたものだ。普段の体育の授業じゃ誰彼構わず怒鳴ってた先生は見る影もなかった。
 私はブラックサンダーのファミリーパックの包装を開けた。一番砕けたものと無事だったものを左右の手に乗せ、砕けた方をあげた。
 私は人を殴りすぎた。少しは逆のことをしないと釣り合いが取れない気がした。
 川島先生は感謝したあと、粉になったブラックサンダーを床に撒いた。それから、泣きながら自分の方にかき集めた。甲子園を再現しているようだ。
 先生もちゃんとラーメンでおかしくなっていた。けれど、床に撒いたせいでおじさん達が駆けつけてきた。手にはチリトリを持っている。おじさんのひとりは、叫ぶ先生を羽交締めにした。
「やめろよ……俺たちの代で初めてなんだ!」
 川島先生は泣きながら拘束を振り解いた。おじさん達と殴り合いがはじまった。椅子が倒れ、ウォーターサーバーが倒れた。びしょ濡れのおじさん達は本気で怒っていた。ラーメン屋はどんちゃん騒ぎだった。
 私はその様子を見ながら、ブラックサンダーを頬張った。じゃくじゃくが頭の中をすっきりさせた。
 ゴミ箱から飛び出たおじさんの足を見て、トランクに詰めかけた浦井先生を思い出した。私は証拠隠滅の最中だった。
 急いでワゴンRに戻ると、トランクの横に人が立っていた。私は「ゔぉっ」とまた声をあげた。
 浦井先生だった。ボルゾイに似た彼は気まずそうに会釈した。
 私は視線をずらす。トランクからは、ラーメン屋を襲う前のまま足がはみ出ている。すっくと立つ先生の身体には夕焼けが透けていた。
 浦井先生は幽霊になっていた。私が白ソックスを振りかぶると、すまなそうに逃げ出した。質量と足が消えた先生は途轍もない速度で路地に消えていった。
 呪詛を吐くかわりに、私はファミリーパックに手を突っ込んだ。一気にふたつも頬張った。
 背中がチリチリと燃える感覚がした。
 昔、テレビの心霊特集で見たことがある。幽霊は生前の行動を繰り返すのだ。浦井先生が幽霊になってセブンでブラックサンダーのファミリーパックを買ったことを言いふらすのは間違いなかった。
 しかも、幽霊浦井は死んだ人間にも話ができるのだ。生きてる人間より死んだ人間の方が多い。私が死んだ後もセブンでブラックサンダーのファミリーパックを買ったことを擦ってくる。カスの大学生ノリが無限に繰り返される。どんな地獄もマシに思えた。
 不安がせめぎ合う限界の脳で、奴が逃げた場所を推測した。
 幽霊がいて、生前親交があった場所。
 脳内に雷が落ちた。
 私は走りだした。来た場所に戻ってセブンを横切る。吹奏楽部の奏でる金管楽器の音が夕空に響いている。
 またブラックサンダーを頬張った。

【完】

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