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「生贄にならないあなたへ」第十一話

前回

 氷川と別れた後、塚本と木戸は稽古に向かった。去り際に、塚本はK-1のチケットを氷川に渡した。「気が向いたらね」と氷川は家路についた。
 氷川がやってくる。明日への気合いは十分に道場の扉を開ける。
 玄昌はいつも通り、正座していた。無感情な目が二人を見据える。木戸も塚本も受けた傷は大きい。だが、指強を止める理由にはならなかった。
 「木戸流は常に万全なり」。玄昌が呟いた言葉が全てだった。
 木戸は油断なく塚本を見ていた。
 指強の間、塚本に変わった様子はない。普段通りに見えるのがどこか恐ろしく感じた。
 一度、木戸は氷川について尋ねた。
 塚本は笑みを浮かべたまま答えずじまいだった。
 そして夜が訪れた。
 夕方から吹き始めた風が、厚い雲を呼び寄せる。
 風で窓が震える。入り口に立つ欅がざわざわと葉を擦って騒がしい。
 塚本を帰し、木戸と玄昌が残っていた。互いに道場の両端で向かい合い、座っている。
 長い沈黙が支配した。
 木戸が一礼する。
「先生」
 玄昌は目を瞑り、風の唸りに聞き入っているようだ。
「塚本の実力は一指に並びます」
 木戸は指強を思い出す。
 その日の指強は冴えていた。塚本と玄昌は打撃の応酬を繰り返した。これまで一方的に攻められていた塚本の姿はなかった。玄昌の突きが脾を抉ろうとすれば、体捌きで塚本は死角に潜り込んだ。
 塚本が突きを躱し、玄昌に一矢報いかける場面もあった。
 六指獄は、師の打撃を躱せれば二指である。
 甲冑との闘いを加味すれば、さらに上の実力に違いない。
「先生」
 玄昌は地蔵のごとく沈黙している。
 「本当に一指になれば」木戸の唇が鉛のように重たくなった。緊張により言葉がうまく発せられない。拳を握り込み、爪を掌に食い込ませた。
「先生は死にます」
 玄昌の瞼がわずかに震えた。
 音が遠くなった。欅の葉を擦る音が消えていく。
 木戸の鼓動が早くなる。それがかえって木戸を饒舌にした。
「塚本は恐ろしいスピードで技術を身につけています。……覚えていますか。受け止めれば最後。先生はあいつの告白に呼ばれるのです。告白は人を肉吹雪にせしめる恐ろしい儀式なのです。試合の前に、きっと塚本はあなたを確実に死なせる!」
 指強の最初の日、塚本が見せた妖艶な笑みが脳裏を掠めた。
「……成長とは人骨の積み重ねなり」
 玄昌が木戸を戒める。
 人骨の積み重ね? 祖父の身体がどうなってもいいと?
「玄爺が死んでも良いと言うのか!」
ばぁん
 玄昌が両の掌で畳を打った。
 木戸の鼻先に線香の匂いが漂った。
 二人の間にある二枚の畳が音もなく立ち上がった。畳の下から冷気が這った。
 木戸の眼前に正方形の穴が現れた。道場の水銀燈が穴の中を照らす。
 岩盤が露出しているように見える。モザイク調で細かな岩板がいくつも凝集した見た目だった。板一つ一つは大きなもので掌サイズ、小さいもので将棋の駒ほどある。そのどれにも人名が彫られていた。
 墓なのだ。木戸流で死んだ者たちの魂の上に道場は建っていた。
 いつ見ても木戸の背筋が粟立つ。
 木戸流によって心を制御していても抑えられない恐怖が脳を支配する。
 ごおっと風が穴から吹き上がった。突風は死臭をまとい、いやに冷たかった。風はやがて白く濁り、禍々しい髑髏の集合体に変わった。髑髏のひとつが顎を開く。
「わきまえよ!」
「お歴々ッ……!」
 木戸が呻く。
 髑髏は脊椎を軸に螺旋状にうねり、時折、人間の顔を作りだす。木戸はどの顔にも見覚えがあった。道場に飾られた零指たちの写真の顔だったからだ。
 髑髏は木戸流を継いだ歴代の零指たちの集合体だった。
 木戸は物心ついた時から、木戸流の教えをお歴々から学んできた。今、師である髑髏は怒りを露わにしていた。
「木戸家の末子。木戸家の悲願を申せ」
 冷たい風が木戸の右耳にそよいだ。暗く掠れた声だった。
陰指いんしの復活……」
「零指を超えた極地こそ我々の夢! 戦の時代、木戸流に陰指が生まれれば、天下に名を轟かせたというのに!」
 おおお、おおお、と地を這う唸り声がした。髑髏の発する怨嗟の声は女、男、老人、子供が混ざり合っていた。人間の可聴域を超えた怪音が脳を揺らす。木戸の視界が何重にもぶれた。
 塚本よ、すまない。木戸は心の中で謝っていた。
 髑髏の気の狂った願望を叶えなければならなかった。そのために、木戸は塚本を木戸流に誘ったのだった。
「陰指を見つければ祖父の肉体を返す契約だったはずです。その前に肉吹雪になれば、元も子もない!」
 目眩の中で、木戸は反論した。
「玄昌もお主も未熟。まるで見ていられぬ。祖父を取り上げれば成長するかと思えばこの体たらく。せいぜいが陰指の器探し役だというのに、我々に説教を垂れるなど言語道断! これを見よ!」
 呻き声が聞こえた。木戸が玄昌を見た。座ったまま、玄昌の肌が青白くなっていた。
 髑髏の額から血の泡が生まれた。無数の血泡が集まり、苦悶の顔を形作った。
「玄爺!」
「玄昌は、我々の中で稽古を取り続けている。眠らずの零指同士の集団組み手。お主が陰指を見つけなければ、玄昌は我々の中で苦しみ発狂するぞ」
 それは、玄昌の肉体が一生お歴々の物になるのと同義だった。
「よいか、塚本は逸材。決して逃してはならぬ」
 血泡が形を変えた。玄昌を囲むようにして、無数の零指たちが祖父の身体を打ちのめす。
 悍ましい光景だった。髑髏も元を辿れば、木戸と同じ血を引く者たちだったはずだ。これほど凄惨な仕打ちをできるのは、六指獄で心を捨て去ったからだろう。
 玄昌の頭をかち割り、髑髏が笑う。木戸の内側に巣食う恐怖を見透かしている。
「心はぶち壊すに限る。ぶち壊さねば、奴に零指など夢のまた夢!」
「私に何をしろと……」
「塚本の心をぶち壊せ!」
 木戸が頭を下げる。
「お主も見たであろう。塚本は今、あの娘を奪われることを恐れている」
 木戸にも壊し方が分かっていた。
 塚本の追い求めているものを壊す。氷川を殺す……否、それでは死に慣れきったあの男を動かすことは叶わない。
──俺が氷川を手に入れるしかないのか
 木戸は迷う心を押さえつけた。
「手に入れねばなるまい」
 無意識に口をついて出ていた。
「時間はないぞ! 奴に木戸流悲願を達成させよ!!」
 木戸は道場を飛び出していた。がむしゃらに夜の闇を走った。
 髑髏が木戸の苦悩を嗤う。風の唸りが強まった。
 それは飢えた獣が、獲物を待ちわびる声にも似ていた。
──俺はどうすれば
 夜明けになっても、木戸の内側で燃える焦りはおさまらなかった。
 おぼつかない足取りで道場に戻る。
 道場の前には塚本が正座していた。
「塚本……」
 声をかけても言葉が続かなかった。
 塚本はぬめるような目線を木戸に向ける。片目が潰れていた。
 木戸に不安がこみ上げる。
 視線を移すと、道場の扉が開けっぱなしになっているのに気がついた。

続く↓

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