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地雷拳(ロングバージョン9)

承前

 マクセンティウスの機嫌は悪くなる一方だった。マクセンティウスの音声認識デバイスはブレーキのすぐ下に設置してある。地面に近い
 やけにうるさく感じた。人には無視できるような音だろう。マクセンティウスは黒い二輪の躯体を持つ。身体が地面に近いほど足音は隣の部屋でドラムセットを叩かれるような苦痛だった。
 ラフォーレの前でマクセンティウスが停まって一時間ほどになる。
 人々が行き交うのをアイカメラで追っていた。マクセンティウスは辟易していた。人間が多すぎる。雑踏の中を走るのは気が滅入った。加速できるエンジンと道を駆ける二輪があるのに、二足歩行を選んだのろまな生き物に合わせる自分が馬鹿みたいだった。マカオでの仕事は、思い出すだけでも憂鬱だ。むせかえるような人と車の量。あの時は仕事の内容よりも雑然とした街が堪えた。
 あの時よりはまだマシだ。
 道路は二輪が走り抜けるには充分だった。
 マクセンティウスは本来、移動する要人にカンフーを叩き込むことを想定されている。高速道路を最高速度で突き抜けるのは何よりも楽しい。躯体がむずむずしてくるのをマクセンティウスは抑える。
 信号機が青に変わる。
 やはり走り去ってしまおうか。マクセンティウスは前輪と後輪を動かして前後に躯体を揺らしていた。ここまで来て帰るのはもったいないように思えてきた。
 カンフーロボは生まれたときから死を看取る。出会う人間のほとんどが暗殺対象だった。覇金グループの命令に背いた人間は、決まって最後に恐怖と憎悪の感情をマクセンティウスに見せた。だが、この女は違った。カンフーチップを使ったマクセンティウスの本体に始めから勝つ気でいた。そして自分に挑み、超えた。マクセンティウス自身を自滅させた時の顔は忘れない。スポーツカーの上で女は不敵に笑っていた。出し抜いた顔の憎たらしさはいつまでもチップに刻まれているのだろう。
 まだ逃げなくても良い。全速力で逃げた先には覇金の追手が待っている。マクセンティウスが逃げ続ける間は、いつまでもやってくる。
 それを楽しむ前に、この女の行末を見届けるとしよう。思い出づくりといこう。マクセンティウスは決めた。
 また、信号機が変わった。歩行者信号が青に変わる。せき止められていた人の流れが動きはじめる。
 マクセンティウスは異変に気づいた。
 通りを歩く人々の様子が変わりはじめた。普段なら水の流れのように早足で歩く人々が、整備を忘れたパイプのように泊まりながら歩いていく。
 ぞろぞろと歩く人たちが後ろを向いていた。
 マクセンティウスは人混みを観察した。隙間から、ふらふらと歩く人影が見えた。老人が足を引きずりながら歩いている。黒い着物を着ている。
 背は小さく、身体の線は細すぎる。
 それでも老人から目を離すことはできなかった。
 マクセンティウスと老人との距離は25メートルほどある。豆粒ほどの身体だったが、視線は老人に吸いよせられたまま離れなかった。
 老人の足はおぼつかない。立ち止まっては数歩進むのを繰り返す。異様な動きだった。数歩動くたびに地面を老人が滑る。マクセンティウスからは、横断歩道を瞬間移動しているように見えた。
 マクセンティウスは考えていた。空手のある流派には距離を瞬時に詰める歩法があると聞く。確信は持てない。だが、異様な拳法の使い手だというのは間違いなかった。
 ふと老人の姿が消えた。
 マクセンティウスは視界を動かす。目を離さずに動きを追っていたはずだった。通行人がいるだけでどこにも見当たらない。
 まずい。
 二輪を動かし始めた時だった。
「え!? なに!?」
 通行人が上を指差し、悲鳴をあげた。マクセンティウスはラフォーレの壁面を見た。
 巨大広告のモデルの美しい顔が写っている。奥歯を擦り合わせるような音が響く。モデルの顔に大きな亀裂が広がっていく。さらに壁の破壊音が大きくなると、爆発音が轟いた。モデルの首から上が砕け散り、2人掛けソファほどのコンクリート片が落ちてくる。
 マクセンティウスは破片の中に黒い人影を見た。ドレスに似た服を着た女だった。
 姫華だ!
 コンクリートの一つがこちらに降り注いできた。マクセンティウスは蛇行運転でかわす。コンクリートの塊がアスファルトを砕いた。
 マクセンティウスは止まった。
 老人がいつのまにか目の前に立っていた。頭には光る銀の円盤がついていた。
「カンフーチップ使いか……!」
 あれほどの歩法をマスターしているのはそれしかあり得ない。
 二輪のカンフーロボは、前輪を跳ね上げた。老人の拳がタイヤに触れると、マクセンティウスの天地がひっくり返った。
 どういう原理かは分からない。ただ、老人が半開きの拳を車輪に沿わせただけだ。それなのに、老人の2倍の重さはあるマクセンティウスの身体を投げたのだ。
 この老人……想像以上にやる……。
 前輪を先に地面に打ちつける。ハンドルを切り、マクセンティウスは着地した。同時に前進する。
 目の前から老人は消えていた。
「……シッ」
 マクセンティウスの側面に老人は拳を放つ。
 回避は間に合ったはずだった。マクセンティウスの目には、老人の拳が伸びたように錯覚した。
 後輪による下段払いに、老人は飛び退った。
 カラテチップを活用できない自分には勝てない!
 鋼鉄の二輪戦士には、足掻くまでもなく理解できた。
 夜の闇は濃くなっている。老人の動きに澱みはない。ただ、ゼンマイを巻かれた兵士のようにマクセンティウスに迫った。横断歩道で見せた異様な歩法だ。
 ヘッドライトを破壊しようと、老人が手刀を振り上げた。
 その途端に、辺りは霧に包まれた。雲海に入り込んだかのような乳白色のベールが、幾重にも老人を取り囲んだ。
 手刀は、むなしく空を切った。
 正体は、排気煙だった。暗殺者に必要なのは十全な用意だった。その全てが敵わない相手に出会った場合、本体のマクセンティウスはバイクに仕込んでおいたのだ。マクセンティウスの切り札だった。
 破壊された建物の破片を切り抜けながら、マクセンティウスは二輪を駆った。姫華たちとは別の方向だった。
 コンクリート群に阻まれた先から、耳障りな回転音がかすかに聞こえてきていた。

(続く)


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