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平成八年生肉之年--05

承前

平岡辰雄

 平岡は観覧車をじっと見つめていた。
 数日前、新たに子どもが行方不明になった知らせが入った。顔剥ぎ事件、虐待事件に続いて署内は色めき立っていた。
 平岡は鉢村を連れて現場の屋上遊園地を捜査していたところだった。
 青空を背景に、黄色いゴンドラがちょうど12時の位置に来ている。ゴンドラの屋根の上には男がいた。男の見た目は奇妙だった。紺の浴衣姿で、顔は肉の仮面で覆われている。
 不安定そうな丸い屋根の上に、男は演説台よろしく立っていた。
 この歳で平岡は新たな知見を得た。本当におかしなものを見ると、すんなりと受け入れられてしまうものだ。気球で肉が降ってきてもさほど動じなかった。
 周囲は違った。
「にっ、肉だぞ!」
 空から降ってきた肉に人々は飛びついた。
「こりゃあすごい」
「本物だわ」
 アトラクションに乗っていた時とは違う、異様な興奮に満ちてきていた。
「はは、ははは、ははは」
 何が起こっている。平岡の考えをよそに、男は愉快そうに笑う。その声は感情の起伏がなく、短く息を吐くのを繰り返しているだけのようだった。それがひどく不気味に響いていた。
「こいつは何のマネだ……」
 鉢村が言った。肉仮面の男には届いていないようだった。
「ゴンドラを動かせ!」
 平岡の声で従業員が操作盤を動かした。起動音とともに再び観覧車が回転する。黄色いゴンドラが地上に着いて止まる。生肉の男は消えていた。
 平岡が観覧車の裏側に回り込んだ。屋上の柵に手をかけて下を覗く。目のくらむ高さの下、カフェのテラス席を男が走り去るのが見えた。
「追うぞ!」
 平岡は肉に群がる人々を押しのけて走る。鉢村が続いた。
「一体どうなってるんです!」
「下だ! 下の階のテラスだ!」
 この時ばかりは、平岡の老体も犯人を目の前に俊敏な反応を見せていた。
「テラスは何階だ!」
「3階です!」
 洋月モールは6階建てだ。
 階段下には騒ぎに押し寄せた群衆でひしめいていた。肩で人の間をこじ開けながら進む。
「待てっ! 肉があるぞ!」
 群衆の誰かが叫んだ。鉢村の身体が人の波に押されていく。
「あとで合流しろ!」
「はい!」
 平岡はエスカレーターを避け、非常階段を駆け下りる。3階の扉を開けた。
「警察だ!」
「仮面の男ですか? あそこに!」
 紳士服売り場の店員が指差す。セール品のワゴンの隣に着物の男がいた。平岡がたどり着くまでに逃げられたはずだ。
 あの野郎。
 わざわざ警察が追いつくのを待っているのだ。
 男の豪胆さに平岡の刑事魂が燃える。
「待てっ!」
 平岡が走り出すと、男も走り出した。錆びついた心臓が血液を送り出す。骨が軋むのも構わず猛追する。
 男はエスカレーターに向かった。
 そこに店員が突っ込んできた。上階での騒ぎを聞いていたのだろう。店員は男に飛びかかった。仮面を被っていれば視界は狭まっている。そこを店員は狙ったのだろう。仮面の男は予見していたようにひらりと突進を躱す。
 店員はトルソーに突っ込んだ。
「追ってください!」
 仮面の男は疾風のように群衆をすり抜ける。エスカレーターを走り、2階に辿り着く。
 2階ではメキシコの物産展が取り行われていた。男の異様な見た目に叫び声が上がる。瓶が割れるような音もした。
 平岡は全速力で追いかける。仮面の男は平岡を試すように何度も振り返った。追いかけっこを楽しんでいるようだ。平岡の身体は悲鳴をあげている。心臓の鼓動で胸が破裂しそうだった。体力は尽きていたが、ここで逃すわけにはいかない。
 平岡はがむしゃらに走る。男は通路を曲がった。通路の先には立体駐車場があった。洋月モールの2階は立体駐車場へと空中廊下で繋がっていた。
 車で逃走を図るつもりか。
 このままでは追いつかない。本部に連絡を取るか。平岡の足が止まりかけた時だった。男の前に立ちはだかる者がいた。鉢村だった。常人顔負けの体力を持つ彼は先を読んで回り込んでいたのだ。
「観念するんだな」
 仮面の男もたじろいだ。退路は平岡がふさいでいる。平岡も刑事として難場を幾度となく乗り越えている。一度追い詰めてしまえば必ず捕まえる自信があった。
 今や空中廊下は絶体絶命の空間と化していた。だが、仮面の男は仰け反るようにして笑っている。
「こりゃあ大変だな」
「あんたはここで捕まるんだよ」
 平岡がじりじりと距離を縮める。
「あなたたちの名前を聞いても?」
「取調室で教えてやる」
「はは、ははは」
 今だ!
 平岡が鉢村とアイコンタクトをとる。同時に男に飛びついた。
 ばりばりと衝突音が轟く。平岡の手は空を掻いた。男はどこへ行ったのか。
 男は眼前の空中廊下の窓を破っていた。ガラスが粒状に砕け散る中、男が落下する。鉢村が飛びつこうとしても無駄だ。割れた窓から風が吹きこむ。下は固いアスファルトの車道が通っている。2階であれば、足の骨が確実に折れる高さだ。男は判断を誤ったのだ。
平岡と鉢村が見下ろした途端、バスが風を切った。
「お二方!」
 走り去るバスから声が聞こえた。
 男はバスの屋根に胡座をかいていた。
「今度はこちらが楽しませる番だ」
 手を振りながら男を載せたバスは曲がり道に消えた。
 鮮やかな逃亡だった。幻覚でも見せられたかのような衝撃に刑事二人はしばらく言葉を失った。
「あんな偶然が……」
「違うな」
「平さん?」
「わざと追い詰めさせたんだ。最初からバスで逃げ去るつもりだったんだろう。バスなら時刻表である程度見当がつくからな」
「それにしたって……」
「ああ、只者じゃない」
 それから遊園地に応援が到着した。園内は制服の警官たちで物々しい空気を醸し出していた。
 気球の残骸は無くなっていた。現場に落ちた生肉はすでに回収されたようだ。
「応援がバスを見つけたそうです」
「仮面の男は」
 平岡の問いに鉢村は首を振る。
「だろうな……」
 今は園内を探すしかなかった。
「どうします」
「まずは奴がどう逃げたかだ」
 事件解決には自分の眼による観察が必要だ。
平岡は男の立っていたゴンドラによじ登る。足が滑りそうになり、鉢村の手を借りた。
「危ないですよ」
「どうってことない」
 強がりが言えるなら自分はまだ余裕だ。関節の痛みを平岡は押し殺す。
 ゴンドラを支える鉄骨を確かめる。わずかに引っ掻いたような傷があった。傷はぐるりと裏側に続いていた。
 平岡は肉仮面の逃走を思い出した。
 肉仮面はまずゴンドラから飛び、3階のカフェに降りた。何か道具を使わなければ真っ逆さまだ。
「ピアノ線か……?」
 平岡は逃走を想像した。
 ピアノ線の先を鉄骨に巻いておき、反対側を体に括り付けて死角から飛び降りる。十分に伸びたら下階のテラスに着地して逃走する。壁を蹴れば勢いはいくらか消せるはずだ。
「それならピアノ線を誰かが回収したことになる……」
「ゴンドラを動かした従業員にも聞いてみませんか」
 鉢村に同意し、平岡は従業員の男に声をかけた。
「市ノ瀬です」
「事件前の状況は」
「普段と同じようにゴンドラを動かしてました。そしたら急に動かなくなったんです。観覧車を見たら……」
 市ノ瀬は身震いした。
「今日以外で変わったことは?」
「松尾さんを見ました」
「それは誰ですか」
「10年も勤めてたのに急に辞めちゃった人です」
「松尾さんはゴンドラの運転もしていたんですか?」
「ええ」
 明らかに怪しい。市ノ瀬の言を信じれば、まだ探し出せるかもしれない。平岡同様、鉢村もそう思ったようだ。
「松尾さんの特徴は?」
「額の生え際にあざがあります」
 平岡は手短に市ノ瀬へ感謝を述べると、出口に向かった。
「松尾は命綱を持っているかもしれん」
「急ぎましょう」
 洋月モールの階下が騒がしくなった。慌てて平岡は屋上に上がり、道路を見下ろす。車が列をなしている。救急車のサイレンが大きくなってくる。
「平岡さん! 大変だ!」
 駆けてくるのは金田巡査だ。牛崎千代子顔剥ぎ事件に同行し、今回も捜査の応援でやってきていた。
「ひき逃げだ!」
 平岡たちは一階まで降りた。鉢村が人だかりを無理矢理に押し通る。発車する前に救急車に追いついた。
「早くどいて! 息が止まってるんだ」
「10秒だけだ」
 担架上の怪我人を見て平岡は呻いた。顔の皮を剥がされ、怪我人の顔は血に濡れていた。痛々しい顔面は嫌でも牛崎の死体を思い出させた。
 救急隊員を鉢村が止める。怪我人の前髪をあげた。紫色のあざができていた。
「平さん」
「間違いないな」
 平岡が確認して頷いた。ポケットを探ると、財布の中の免許証には「松尾裕史」とあった。
 さらにポケットを探る。硬い感触があった。
「やはりな……」
 平岡がポケットから手を出した。ピアノ線が握られていた。髪の毛より少し太いそれは日光で煌めく。
 現場では黒い車が目撃されていた。牛崎千代子の時と違うのは、髑髏の面を被った男が乗っていたという情報だった。
 それを聞いた鉢村が、今すぐ犯人を追いかけようと息巻く。
「赤い仮面男が顔剥ぎ事件の首謀者ですよ!」
「そうとは決まっちゃない」
「平さんも仮面男の台詞を聞いたでしょう!」
「……今は状況の把握だ」
 平岡が鉢村を宥める。
 ──今度はこちらが楽しませる番だ
 肉仮面の言葉が脳裏に過ぎる。愉快そうに笑うあの男が、急に恐ろしく思えた。破天荒な行動と残虐さが表裏一体となった仮面の男。想像以上に危険な相手だった。
「金田さん。ひき逃げは見ましたか」
「私が見た時にはもう……」
 金田はすまなそうに頭を下げた。
「私、見ましたよ」
 人だかりの中から、小柄な女性が進み出ていた。
「……失礼ですがあなたは?」
「初川千歳。記者です」
 初川と名乗る記者は、事件の様子を説明した。
「モールから男の人がよろよろ出ていきました。頭全体を隠すように押さえていて。きっと剥がされた部分が痛んでたんでしょう。道を渡ろうとしたので、通行人が声をかけようとしたところを黒い車が轢いていきました」
 また黒い車だ。牛崎の時と同じ顔はぎの犯人が暗躍している。
「犯人は複数いますね。松尾を襲った奴と車を手配した奴がいる」
「それともう一つ」
 初川が付け加えた。
「圭子さんが行方不明になったとき一緒にいました」
 平岡が言葉を探していると、千歳は続けた。
「あの仮面の男は都市伝説になぞらえて動いています」
「……詳しく聞かせてもらえますか」
 平岡は現実の話とは信じられなかった。朱川中学校の都市伝説が山口圭子を攫った。そう千歳は言った。
「圭子さんは赤い顔の話に倣って消えてしまったんです」
「つまり、その赤い顔こそ仮面の男だと?」
「信じられないと思いますが、そうとしか思えません」
「ありえない」
 鉢村が言い放った。
「仮面男が都市伝説なら、どうして顔剥ぎ事件が起こるんですか」
「赤い顔は「赤い顔ほしい?」と聞いて、はいと言った相手を赤い顔にしてしまう……」
 平岡は独り言のように呟いた。
 馬鹿げた話が奇妙に繋がっている。
「完全に都市伝説通りではないにしろ、赤い顔を模倣している。そして赤い顔はこの街の住人でなければ知り得ない話ということか」
 千歳が頷いた。
「都市伝説から私は事件を調べます。平岡さん、お願いです。私に力を貸してもらえませんか」
「バカ言っちゃいけない。警察内部の情報は教えられないよ」
「圭子さんを助けたいんです」
 千歳の目は本気だった。鉢村のような強い正義感とは異なる熱を帯びていた。
「貴方は記者だ。巻き込むわけにはいかない」
 平岡が拒んだ。すでに顔剥ぎ事件で死者が出ていた。凶悪な犯人の毒牙に一般市民を晒すのは平岡の望むところではなかった。
「私は諦めません」
 千歳が平岡に名刺を差し出した。受け取らなければ、引き下がらない勢いだ。平岡が名刺を受け取ると、千歳は黙礼して去っていった。
「あの子、止めても調べるつもりですよ」
「分かってる」
「平さん、どうしますか」
「まずは黒い車を突き止める。奴らの殺しは許されない。鉢村、鑑識に命綱を提出してくれ」
「分かりました」
「それから……」
 鉢村に小さなビニール袋を渡す。
「こっちは別ルートで」
 ビニールの中には空から落ちた生肉が入っていた。鉢村は頷き、赤と白の塊を胸ポケットにしまった。
 平岡がピースに火をつける。ふわりと紫煙がたなびく。煙はゆらゆらと空中をさまよって青空に消えていった。

(続く)

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