平成八年生肉之年--04
承前
初川千歳
わあわあと子どもたちの声がこだまする。
洋月モールの屋上遊園地は、平日も市内の子どもで活気に満ちている。観覧車には親子連れの列が出来ていた。園内では最も見晴らしがいいため、人気のアトラクションのようだ。時折歓声が聞こえた。
千歳はゆっくりと回るゴンドラを見ながら、もの思いにふけっていた。
普段であれば平和に見える風景を楽しむ余裕は今はない。
千歳は息を吐き、頭がぐったりと重くなるのを缶コーヒーで紛らわせる。土曜日、ここで起きた奇妙な出来事が思考を占めていた。
9時30分に駅に着いていた。普段、車を使う千歳にとって駅は縁遠い。朝の道路の混み具合も考えて早く出てきた。
高校生との待ち合わせをしている。そう思うと少しだけ居心地が悪くなった。これは都市伝説を集めるための集会だ。そう言い聞かせても気まずさは拭えなかった。
改札の人混みから、女性がこちらに向かってきた。
「初川さん?」
千歳は少しして圭子だと認識した。
圭子は白いダウンジャケットにジーンズを合わせていた。髪を下ろしているからか、学校で見たときよりも大人びて見えた。
「この前と同じ服だからすぐわかっちゃった」
圭子は悪気なく言った。
千歳はブラウンのスラックスにネイビーのコートを合わせている。圭子の言う通りだ。仕事はほとんど装いは変えなかった。
「圭子さんは大人びてますね」
「そう? 嬉しいな」
圭子の笑顔にはあどけなさが残っていた。
外は秋晴れだった。
千歳たちは駅を出て中町通りに向かった。
中町通りは松本駅から10分ほど歩いたところにある。大正、江戸から続く建物に商店が入っており、昔の街並みが残っていた。
土曜日は人通りが多い。観光客が目につくのは、以前にドラマの撮影が行われたからだろう。
「ここ行ってみよ」
圭子が千歳の手を引く。パワーストーンを売っている店に入った。店内にはアメジストやオパール、他にも知らない石が並んでいた。全体的にエキゾチックな雰囲気だ。古民家のような外観とはギャップがあった。
「よく来るんですか」
「たまにね。あ、千歳さんに似合いそう」
圭子が手に取ったのはターコイズのブレスレットだった。目の覚めるような水色をしている。
「普段の服に合わせられるかな……」
「これに合わせて服変えればいいよ。社会人はお金持ってるでしょ?」
そう言って圭子は千歳にカゴを持たせる。中には赤色のピアスが入っていた。
「圭子さん」
「これはガーネット」
「高校はピアス禁止なんじゃないんですか」
圭子が髪をあげる。耳には小さく穴が空いていた。
「もう開けちゃったよ」
悪びれることなく圭子は言った。
「今日はつけてないんですか」
「初めてつけるなら今日がいいと思って」
ねだるのが上手な子だ。きっと両親は沢山可愛がるんだろうな、と千歳は思う。
結局、彼女に買ってあげた。店を出てすぐに圭子は、買ったばかりのピアスをつけた。耳に丸くカットされたガーネットが太陽を反射する。
「似合うかな」
「とっても」
その後も二人で通りを歩いた。久々に歩く街は違うものに見えた。圭子の様子は陽気に見えるほどだった。試着室で古着姿を見せる彼女に消えてしまうとは思えなかった。
しばらくして、圭子が歩くまま洋月モールに着いた。
洋月モールは朱川中学校から自転車で15分ほどの場所にある。中町通りからは遠くない。市内では比較的大きな商業施設で、屋上には遊園地が併設されている。
昼食はモール内にある喫茶店に入った。
店内は人がまばらだった。落ち着いた雰囲気でクラシック音楽が流れている。やたらと大声で話す観光客がいたのが気になった。
圭子はナポリタンとモンブランを食べたあと、ショートケーキも平らげた。千歳は彼女の健啖ぶりに驚いた。千歳はまだオムライスを半分食べ進めたばかりだ。
「すごいですね。私のも……あ、いや」
「ここのオムライスは多いもんね。もらっちゃうよ」
圭子は千歳の皿をがらっと自分に引いて食べ進める。オムライスがみるみる消えていった。
「なんだか久々です」
「千歳さんは、洋月モールはあんま来ないの?」
いつの間にか、下の名前呼びに変わっていた。圭子は気にすることなく、オムライスを食べ続けている。
「学生の頃はよく来ていましたよ」
「朱中からだと遠くない?」
「ええ。でも、おかげで一人になりたい時は重宝しました」
学生時代の記憶が蘇る。洋月モールに一人でいると誰の中にも入っていない気がした。今考えれば小さな自由だったが、それが必要だった。
「ふふ」
圭子は千歳を見て笑った。
「変ですかね……?」
「思った通りの答えだったから。悪い意味じゃないよ。千歳さんは最初に会った時からずっと私と似てるなぁって思ってた」
「どのあたりが?」
千歳は自分は友達がいる方ではなかったので、似てるとは思えなかった。
「たくさん友達がいるかどうかじゃないよ。自分と他人を線引きして自分側から出てこない感じが似てる」
千歳は「はあ」と相槌を打った。理解が出来ないのではなく、その逆だった。
今まで自分が気がつかなかった柔らかい心の部分を探られている不思議な感覚だった。
「どうしてそう思うんですか?」
「千歳さん。私にずっと敬語じゃん。最初は初対面だからかなぁって思ったけど違うよね。人の線を踏んで叩かれたからじゃないかな」
「……」
父の缶ビールを片付けようとして殴られた頬が熱を帯びる。
「私もだよ」
圭子が口を開けて舌を出した。
舌の先が千切れたようにぎざぎざになっていた。
会計を済ませてモール内を回った。
時間が止まったように学生の頃と変わらなかった。マネキンが怖くて泣いた婦人服売り場、何時間もいられた小さな書店。階の移動では空港のような動く歩道で繋がっていた。子供の頃は特別な乗り物に思えて、何度も乗った。
先導して千歳がエスカレーターに乗る。小さい頃、よくやる乗り方があった。わざと後ろ向きに乗るのだ。進んでいるのに遠ざかる感覚が好きだった。
千歳が後ろを向くと圭子の後頭部があった。彼女も同じように後ろ向きに乗っていた。
「来るとやっちゃうんだよね。なんか変な感じ」
圭子が振り返って言った。
彼女といると昔から友達だったように錯覚してしまいそうだった。柄にもなく学生気分になった自分が恥ずかしくなった。
屋上の扉を開けると、陽が落ちかけていた。吹きつける風が冷たい。
子どもの歓声がした。サーカス小屋のような赤と白の屋根、緑色の床。絵本の中にやってきたようで高揚する。親子連れが千歳たちの前を横切った。メリーゴーランドが音楽を鳴らす上を、小さなモノレールが走っている。その向こうには観覧車があった。色とりどりのゴンドラがゆっくりと回転している。中学校の頃と変わらない景色だった。
自動販売機の前にあるベンチに千歳は座った。
「ここで観覧車を見るのが好きでした」
圭子も隣に座る。ぼんやりと遠くを眺める。青空と原色のゴンドラの対比が眩しかった。
「いいね。なんか落ち着く」
「……圭子さんの言う通りです。自分と他人の線引きがないと私は落ち着かない。自分と他が区別できないと自分がなくなりそうで怖いのかもしれません」
ソフトクリームを持った兄弟が走る。さっき喫茶店にいた観光客もいた。外国語で何か叫んで笑っていた。
園内を眺めている時間が心地よかった。
「そういえば、絵見ましたよ」
千歳は話題を変えた。圭子が大袈裟に驚く。
「あんま綺麗じゃなかったでしょ」
「素敵な絵でしたよ。どうやってあんな構図を?」
「想像で描いたの」
魚眼のような構図を思い出す。自然に描いてああなるものなのだろうか。水彩の神社の鳥居を思い出す。柱の向こうから赤い顔がのぞいている。
「前に教頭から聞いた話で思いついたんだ」
「松代教頭からですか。ちなみにどんな話を?」
「なんか、昔話みたいな。山の天気がおかしくなって村が飢饉で困っている時に、赤い人が助けてくれたんだって」
「だから赤い顔を描き加えたんですか?」
「そう」と圭子は頷いた。
「本当に会いたかったのもあるよ。実際、赤い顔は私が呼んだら答えてくれた」
「教えてくれませんか。どうして赤い顔に会おうとしたのか……」
「自分でもよく分かってない。でも、ひとりで決めたことがひとつでも欲しかったんだと思う。私の親ね。全然私に興味がないんだ。何をしても知らんぷりで。舌見たでしょ? ドラマで人が死ぬと口から血を出してるじゃん。私もあの真似をしたら少しは気にかけてくれるかなって」
「ご両親は……」
「全然だめだったよ」
寂しそうに圭子は笑った。
圭子の話は、千歳に自分の中学時代を思い出させた。家に帰った時の胸の奥に鉛が詰まったような感覚が追いかけてくる。
「学校に行けば喋る人もいるからさ。別にいいんだけど。なんか……やだね。親のことなんてどうでもいいって思ってんのにまだウジウジ考えてる」
千歳は圭子の膝に手をのせる。ジーンズ越しでも体温が伝わった。自分が話しかけても返事がこない母親と、必ずやってくる赤い顔。赤い顔を取ってしまう彼女の心を思うと胸が痛んだ。
「ありがとう。聞いてくれて」
「こちらこそ。話してくれてありがとうございます」
千歳は会釈する。強い風が吹いた。耳元をごおっと音を立て、風は体温を奪っていった。
空は薄い紫色に変わっている。日が落ち始めていた。まだまだ陽が落ちるのは早い。いつの間にか園内にいる人も数えるほどになっていた。
「そろそろ行きましょうか」
千歳が屋上の扉を開く。圭子は後ろをついてきた。耳元でガーネットのピアスが輝いた。
結局、赤い顔は現れなかった。自分が怪談を集めていたのも忘れて千歳は安堵していた。いつの間にか圭子の言葉に飲まれて赤い顔を信じきってしまっていた。今になれば現れなくてよかったと思っていた。もっと圭子と話したかった。
今度は自分の話を出来るだろうか。伝えられなかった自分の過去を話して圭子と向き合いたかった。都市伝説の記事は頭から消えかけていた。もっと話そう。記者としてではなく彼女の話を聞きたかった。
千歳たちはエスカレーターに乗る。来た時のように千歳は振り返った。
圭子の後ろ姿はなかった。さっきまでいた圭子は跡形もなく消えていた。空中に放り出されたような不安が身体を包んだ。
「圭子さん」
モール内は閑散としており、見逃すはずがない。エスカレーターを逆走し、ゲームセンターのあるコーナーを見回す。
「圭子さん!」
嫌な汗が流れはじめる。ゆっくりと流れていた時間が急に早回しになったようだった。自分の鼓動も早くなる。夢中で階段を上がり、遊園地を見回す。
「すみません、白いダウンジャケットの女の子を見ませんでしたか」
閉園の準備をしている従業員に千歳は尋ねるが収穫はない。園内を走り回った。いくら探しても、いくら呼んでも圭子は現れなかった。あまりにも突然の出来事だった。千歳は洋月モールが閉まる時間まで圭子を探した。結局、圭子の姿は見えずじまいだった。
ここで記憶の再生が止まる。千歳は空を見上げる。土曜と変わらない青空なのが、自分の停滞した状況と重なった。
その後、朱川中学校に連絡をとった。圭子は学校を欠席していた。一縷の望みだった千歳に内緒で帰った線も消えた。
もう一度園内を見渡す。子どもたちの中に混じってコートを着た男たちが動き回っている。圭子の失踪を確認しにきた警官のようだ。
犯人を捕まえられる望みは薄そうだった。モール近辺で聞いて回っても圭子を見た者はいなかった。
千歳は赤い顔の仕業と認めたくなかった。圭子を連れ去ったのが怪談の存在であれば二度と帰ってこない。そんな確信めいたものがあった。
必ず見つけなければ。千歳は自分を奮い立たせ、ベンチから立ち上がった。
諦めるつもりはない。まだ聞いていない観覧車の従業員に聞いてみるつもりだ。
不意に観覧車に目が吸い寄せられた。わずかな違和感に千歳の警戒心が高まる。黄色いゴンドラが頂上に来ていた。
ゴンドラは頂上で止まっていた。2分ほどの間、同じ場所で微動だにしていなかった。先ほどまで賑やかだった園内にも異常が伝わり始めた。
「あっ」
最初に声を上げたのは子連れの母親だった。
黄色いゴンドラが揺れた。にゅっと何かがゴンドラの屋根から生えた。
腕だ。かまぼこ形の屋根に人影が立っていた。
おかしくなった自殺者がゴンドラに登ったのだと思った。次々と悲鳴があがり、警官たちが落ち着かせようとするが、無駄だった。
千歳は人影がよく見えるように観覧車まで走った。
近づくと全容が分かった。人影は青い浴衣を着ている。背と肉付きで男だと分かった。
男が立ち上がる。千歳は言葉を失った。
男に顔はなかった。代わりに面に覆われていた。それは白と赤色のまだら模様で生肉を彷彿とさせた。
「赤い顔……」
千歳は呆気に取られた。
遠目から見れば、かつて千歳が聞いた赤い顔そのものだった。繋がってほしくなかった点が繋がる。圭子の言葉が真実となった。
一瞬、男がこちらを見る。頭に黒い頭巾を被っている。赤い顔には小さな二つの穴が空いていた。虚な視線が千歳を捉える。千歳はその視線をまっすぐ見据える。
悲鳴は聞こえなくなっていた。昼間の遊園地に似つかわしくない怪人物が現れ、剣呑な雰囲気に包まれた。
「今日で飢餓は終わる」
男は園内を見渡して言った。
「ああっ!!」
人々がざわめいた。空を見上げる指を指している。子どもたちはニコニコと笑っている。
千歳が見上げると、気球が降ってきた。
白いそれには箱が結えられていた。気球は続々と屋上に降ってきた。
「肉だっ! 肉だよ!」
誰かが言った。箱は桐箱で贈答用に似て生肉が包まれていた。
驚愕する人々を尻目に、二人の人物が観覧車に近づく。それは老人と若い警察官の二人組だった。
(続く)