古刀と新刀のこと
日本刀は安土桃山時代(1595年頃)を境にそれ以前を古刀、以降の作を新刀と呼んでます。その後1781年から新々刀になります。
古刀と新刀という呼び名はただ単に時代の区分だけではなく、刀そのものの様式の変化(姿や地鉄、刃文などの変化)を指してそのように呼ばれています。
①古刀について
古刀期は五地方(大和、相州、備前、山城、美濃)に主要刀工群が存在し、それぞれの地域ごとに特色のある刀を鍛え、その鍛え方を長い間それぞれの地域で伝承してきました。
例えば作風で言えば当然例外はあるにしてもざっくりと大和は柾目で直刃が多く質実剛健、相州は大板目の交じる物も多く刃に地景が絡み賑やかで刃が明るい、備前は乱れ映りが刀に現れたり、山城は小板目が詰み透き通るような地鉄、美濃は尖り刃が多く刀身が白い、といった感じで作風は結構異なる。
勿論中には大和当麻の作と相州行光の作のように分かりづらい刀も沢山あるわけですが。
なぜこのように差が出るかと言えば、作刀工程の違い(鍛錬の技法や鉄の合わせ方、鉄の材質、焼刃土の成分や土置きの方法、焼き入れ温度などなど)によって生まれると考えられています
ではなぜこの五地方に刀工が多いのかといえば、朝廷や社寺、幕府などが存在していた場所だった事から武器の需要が多く、各地の荘園(社寺や貴族や社寺の私有地のこと)から作刀につかう鉄や炭が豊富だった事も理由に考えられるそう。
備前や美濃は現在でも焼き物の産地であるように、良質な水や土に恵まれた事を背景に繫栄し、特に備前は古備前友成や正恒などのように平安時代から日本刀の生産が行われているなど歴史も長い事が分かります。(因みに大和は社寺との結びつきが強く歴史も長い。無銘が多いがこれは僧兵の為に作っていたからとされる)
美濃伝は登場が南北朝期頃からで他に比べると歴史が浅いものの、よく切れると評判で、また優れた大量生産技術も持ち合わせている特徴があります。
②新刀について
新刀期になると諸大名が城を築いて城下町を作り経営していくわけですが、それと同時に優秀な刀工を抱えて武具を整えようとする傾向が強くなります。それにより刀工が城下町に続々と移住。(堀川国廣も京へ移住してきた1人)
一方で全国的にも物資の流通がかなり整い、産地でなくても良質な鉄や炭が手に入りやすくなったことから五ヶ伝のような多様性は失われていきます。
それでも都市に集まった刀工たちは少しづつ藩の方針や依頼する人の趣向などの影響を受け、やがてそれぞれの都市で代表的な様式(大阪新刀、江戸新刀、肥前刀など)が確立されていきます。
特に大阪新刀は助広の濤瀾刃など華やかな刃文をしたもの、凝った彫り物がされているものなどが登場。
出来不出来のムラが少ないというのも大阪新刀の特徴のようです。
これはお金持ちの町人や蔵屋敷に往来する武士など、不特定多数の客を対象にしたいわゆるブランド商品としての性格を帯びているのだ、という人もいます。華やかさは当時の大阪の人の性格に合っていたのかもしれません。
一方で虎徹をはじめとする江戸新刀は切れ味などの実用性を追求していたとも言われ、大阪新刀との違いも見て取れます。
③終わりに
今回は古刀と新刀の成立背景について軽く触れてみました。現在でも多くの現代刀工の方が古刀再現を目指して鍛錬されています。
現在の鍛錬法は新々刀期の水心子正秀がまとめた復古刀論を基にしていたかと思いますが、五ケ伝毎のオリジナルの作刀方法は長い歴史の中で鍛錬法が不明になってしまった事は大変残念です。
今後暫くして技術が解明されて古刀が完全再現(判定方法は置いておいて)される未来が訪れるのか、それとも私達が生きている間の再現は無理なのか、誰にも分かりませんが一愛刀家として今後がとても楽しみです。
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↓この記事を書いてる人(刀箱師 中村圭佑)
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