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源清麿が窪田清音に贈った刀

源清麿の作の中でも特に有名な刀は以下の重要美術品であり長野県宝の刀で、窪田清音に贈ったとされる刀である気が個人的にはしている。

表「為窪田清音君 山浦環源清麿製」
裏「弘化丙午年(三年)八月日」

画像出典:「日本刀 著:財団法人塚本美術館」より

この刀の資料性の高さを示す為、簡単に清麿の経歴など。

1813年 文化10年(0歳)
誕生。本名は山浦内蔵助環(やまうらうちくらのすけたまき)。

1829年 文政12年(17歳)
兄の真雄と共に上田藩工の河村寿隆の門に入り「一貫斎正行」と名乗る。

1830年 文政13年(18歳)
兄との合作刀が存在。銘は「天然子完利二十七歳造之 一貫斎正行十八歳造之」とあり、兄と9歳差である事が伺える。

1834年 天保5年(22歳)
1831~1834年まで松代海津城下にて鍛刀しており、この時に師である河村寿隆より「秀寿」銘を贈られ、1834年(天保5年)にこの銘の作が存在している。
しかし以降は正行銘に戻る。

1835年 天保6年(23歳)
江戸に出て、幕臣で兵法家として名高い窪田清音の門に入るが、むしろ刀工としての才を認められて鍛刀に専念。

1839年 天保10年(27歳)
窪田清音により1振3両(約39万円)で作刀し窪田清音の門下生に売る仕組みの「刀剣講」が誕生するも、1振目を完成させたところで長州藩の家老である村田清風の招聘により山口県の荻へ。

1842年 天保13年(30歳)
山口県の荻で作刀

1844年 弘化元年(32歳)
長野県小諸に帰郷

1845年 弘化2年(33歳)
江戸に戻り四ツ谷伊賀町に住み鍛冶場を開設。

1846年 弘化3年(34歳)
窪田清音の一字を貰い「源清麿」に改名。
窪田清音に刀を贈る(今回話に取り上げた作)

1854年 嘉永7年(42歳)
自害

こうみると、窪田清音という人物が如何に清麿の人生に深く関わっていたかという事が分かる。

冒頭の刀を改めてみると、「為 窪田清音君」と為打ちが分かる事、窪田清音の一字を貰い「源清麿」に改名した名を刻んでいる事などその資料性がととてつもなく高い事が伺える。
本名である「山浦環」を刻んでいる事もまた興味深い。

因みに「清」という字は窪田清音から一字貰ったと言われている故に本来の読み方は「きよまろ」ではなく「すがまろ」らしい。
どこでどう読み方が変わったかは分からないが、現在は「きよまろ」読みが一般的ですが。

尚この刀について私は手に取って見た事はありませんが働きが非常に盛んで覇気と躍動感に溢れ相州伝の美点がつまった作との事です。
もし直接見る機会のある人がいれば清麿の想いに想いを馳せてみるのもまた一興そうですね。

画像出典:「日本刀 著:財団法人塚本美術館」より


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↓この記事を書いてる人(刀箱師 中村圭佑)

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