廃刀令までの流れ
武士と刀の終焉とも言える廃刀令は明治9年3月29日に発令されました。
そこに及ぶ議論は7年前の明治2年から始まっていて、廃刀令に絡む様々な施策がその間着々と進んでいました。
個人的に結構面白かったのでまとめてみます。
・廃刀令までの流れ
■明治2年(1870年)
・森有礼が佩刀禁止を求めるも否決
廃刀令より遡る事7年前の明治2年、森有礼が佩刀禁止を公議所に提議したことに始まります。
しかし王政復古(武家政治を廃して君主政体に戻すこと)から間もない事もあり、「廃刀する事で精神を削ぎ、国の元気を消滅させるといけない」として受け入れられず、森は退職を命じられます。
・徴兵制の反対
士族、平民関係なく満20歳に達した男性から選抜して3年間の兵役に服させる徴兵制を大村益次郎が提案。
しかし大村が士族たちにより暗殺されます。
国民が一律に徴兵されるようになると士族の存在意義が失われてしまう為、士族が徴兵制に反対したのです
■明治4年(1871年)
・「散髪脱刀令」が発令
幕末に洋式軍制の導入が始まってから、髷(まげ)を結わずに散髪する風潮が広まりつつありましたが、この日髪型については勝手にし、華族や士族が刀を差さなくても構わないとされました。
特に強制力のあるものではなく、あくまでも「していいよ」というレベル。
またこの制度を「女子も散髪すべき」と誤解した女性が男性同様の短髪にすることがあった為、翌年に東京府が「女子断髪禁止令」を出していたりもします。
個人的にはこの「散髪脱刀令」は大衆(特に士族)の意識改革が目的だったのではと考えます。
つまり従来の武士という文化は古い、西洋文化こそ流行のスタイルで髷の合う和装はダサいという認識を大衆に植え付ける為の施策だったのではないかと…。洋装に刀は合いませんから自然と刀を身に付ける事もダサいという風潮になります。
そして後に繋がる徴兵制に向けてより一つの軍として統制する為にも洋式軍制を広めたかったのではないかと…(あくまで個人的な見解です)
(画像転載元:知恵の雫)
・「御親兵」を設置
翌年の廃藩置県(後述)に備えて、薩長、長州、土佐の士族を集めた明治政府初の直属軍隊「御親兵」が作られます。
・各地に「鎮台」と呼ばれる軍事組織が設置
各地方で反乱の監視、鎮圧をする事を目的に諸藩の士族が各地の鎮台に配属されました。
■明治5年(1872年)
・徴兵告論を発表
徴兵告論により、士族、平民関係なく、満20歳に達した男性から選抜して3年間の兵役に服させる徴兵制が立てられました。(暗殺された大村益次郎の案)
この内容を国民に言い聞かせたのが徴兵告論です。
徴兵制の事前告知みたいなもの、と考えてもらえれば。
徴兵制の目的は純粋に新政府軍の軍力増強が理由とされています。
士族のみで軍隊を編成しても国内の反乱の鎮圧だけならまだしも、欧米諸国に対抗する軍隊には到底足りえない為、広く国民に徴兵の義務を課すことで強大な軍隊を創設しようとしました。
・廃藩置県の実施
藩を廃止して、その代わりに新政府直轄領の「県」を置きました。
これにより名実ともに全国が新政府直轄領となります。
天皇直属部隊の近衛兵も作られます。
役目を終えた御親兵が中心に構成されました。
メインの仕事は皇居付近の護衛で、東京近辺の内乱の監視や鎮圧も担います。リーダーは山県有朋。
(画像転載元:近衛兵日本軍)
前年の御親兵や鎮台の設置はこれらへの反乱を防ぐ為だったとされています。暗殺された大村益次郎の意思を山県有朋が引き継ぎ、実現に向けた施策を積み重ねる事で遂に徴兵制が通ったわけですね。
■明治6年(1873年)
・徴兵令を発表
徴兵制の具体的な内容が徴兵令として公布。
・「散髪脱刀令」を受けて明治天皇も散髪
散髪脱刀令を受けて明治6年3月には明治天皇も散髪を行い、官吏を中心にこれに従う者が更に増加。
散髪の風潮が加速します。
■明治8年(1875年)
山縣有朋の建議が採用。
この建議の内容は「従来刀を帯びていたのは敵を倒したり護身の為であり、今となっては国民が皆兵となる令が敷かれ、巡査の制も設けられ、これにより個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」というもの。
いやはや、全てはここに繋げがる色々な策なのでした…。恐るべし。
反発する武力を奪うために豊臣秀吉が行った刀狩りと似たような印象も個人的には受けます。
(画像転載元:山県有朋wiki)
■明治9年(1876年)
・廃刀令が発布
山県の建議により、遂に廃刀令が発布されます。
これにより皇族、政府役人、軍人、警察官以外の者の帯刀が禁止されました。
■明治10年(1877年)
・西南戦争勃発
明治維新にあたり様々な特権や権力を失った士族は、その魂とも言える日本刀すらも取り上げられた事で、武士の誇りを傷付けられ怒りが爆発。
既に全国各地で起こっていた反政府活動が激化して、西南戦争に繋がっていきます。
この戦争を持って武士と刀の時代は終わりを迎えます。
(画像転載元:西南戦争wiki)
・終わりに
この時代に生きた刀鍛冶はまさに地獄も地獄。
とにかく職が急に無くなるわけです。
左行秀など明治まで生きた刀工は多いですが、その頃の作刀は極少ないものですし、相馬中村藩工であった大慶直胤門の慶心斎直正は明治12年に失意で自害したり、石堂運寿是一が鉋鍛冶に転じています。
刀鍛冶以外にも一般の刀剣が悲惨であったことは言うまでもありません。
荒縄で束ねられて一山いくらで売買された話も伝わっているようです。
(参考:日本の美術4 新刀 編集:小笠原信夫)
(画像転載元:葵美術 石堂運寿是一精鍛)
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それでは皆様良き御刀ライフを~!