後藤家と埋忠家では使用できる材料や製法に決まりがあったのだろうか
埋忠明寿(1558~1631年)は作刀(長物は相馬家伝来の太刀一口のみで、短刀が主)や刀の摺上作業、それに伴う金象嵌による銘入れ、押形作成、それにとどまる事なく、刀装具製作まで幅広く行った言わば多彩なアーティストであるように思うが、よくよく考えてみれば刀装具製作と言っても鐔以外の作が残っていない。
これは不思議な事に思う。
江戸時代になれば横谷宗珉や安親、大月光興などといった町彫金工の多くは鐔から縁頭、小柄など製作している。
しかしこれは明寿よりも後の時代の話であるので時代の流行が異なると考えられ、同列には語れないであろう。
では明寿と同じ時期の金工に目を向けると、代表的なところは金家と信家だろう。この両者はやはり鐔のみ製作している。
現存作が鐔だけ、という方が正しいか。
但し金家と信家については明確な時代というのは分かっていない。
あくまで同時期の桃山頃の金工だろうと考えられているだけである。
・金工の名門後藤家
さて金工の名門と言えば、何よりも後藤家の存在は外せない。
明寿よりも前、室町時代の後藤家の上三代(祐乗、宗乗、乗真)の作を見てみると、目貫や小柄、笄などの三所物はあれど、鐔は製作していない。
そしてその全てが赤銅地、もしくは金無垢、赤銅に袋着といった組み合わせである。
後藤家はもともと家彫、腰元彫などとも言われ、主に将軍家の短刀の外装金具を製作したことから、三所物(目貫、小柄、笄)ばかりを作っていたとも考えられる。
古い時代の短刀拵は殆どが合口拵で鐔が必要ないものなので、鐔は製作してこなかったのであろうと「刀装具御家彫名品集成」にも記載がある。
・徳乗と埋忠明寿
後藤家が鐔の製作を始めたのは4代光乗(1529~1620)、5代徳乗(1550~1631)からの時と考えられているそうであるが(後代後藤家の極め物が存在)、これは埋忠明寿(1558~1631)の生存年とほぼ同時期である。
徳乗の極め物の鐔としてはそれぞれ以下のような物がある。
しかしいずれも極め物であり、信憑性の点で言えば100%徳乗のものとは言い切れないはずであり、これを基に徳乗はこのような作を作っていたと考えるのは道に迷う原因になる気もする。
・昔の鐔≠シンプル
話は少し逸れるが、鐔の製作自体は遥か昔、古墳時代からされている。
古い時代の鐔は鉄地に簡単な透かしが入っている古刀匠鐔のようなもの、果たしてそうだろうか?
鎌倉から南北朝にかけての物には紋様の透かしの入り覆輪の付いた物もあれば(以下真玄堂さんの写真参照)、室町時代には毛彫で草花を表現し金や銀を点象嵌した物も残っている。
鎌倉や南北朝期頃と思われる笄が残っている事から、この時代頃にこれが通る櫃孔が開けられた鐔が作られていたと考えられるのは筋の通った考え方と思う。
そして古刀匠鐔のようなシンプルで無櫃の物が小柄笄を必要としない雑兵が用いた物というのもまた納得のいく考え方のように感じられる。
・埋忠明寿や金家の革命
しかし風景や植物を殊更絵画的に描いたり、茶器のような表現を持たせた鐔の登場で在銘なものと言えば、まず明寿や光忠、金家あたりが挙げられるのではないだろうか。但し光忠と金家については正確な年代については良く分かっていない。
・後藤家と埋忠家
後藤家と埋忠家、いずれも足利将軍家に仕えたとされる名門。
ここからは個人的な推論と極論ではあるが、桃山時代という時代において後藤家はあくまで赤銅地に金で色絵した物のみを作り、その他の鉄や素銅、真鍮などの素材を使ったのは埋忠家というように、素材と製法で明確に分けていたのではないかとも思える。
埋忠明寿に赤銅地の作はあっただろうか?
個人的には図録などを含めて見た事が無い。鉄、素銅、真鍮のみである。
またそれらは高彫で金色絵はされていない(金象嵌や銀象嵌はある)。
反対に後藤家に素銅や真鍮を使用した作はあっただろうか?
これも見た事がない。あるのは赤銅と金無垢である。(祐乗の笄に鉄地があったような記憶もある)
因みに金家にしても鉄地に高彫で色絵はされているが、赤銅地や金無垢、真鍮の物はない。
但し埋忠鐔でも17世紀になり江戸時代頃の埋忠七郎左衛門橘重義の作になれば赤銅地に高彫の色絵はあるので、江戸時代になればこの辺りぐちゃぐちゃに関係なく作られていそうであるが、室町から桃山に掛けてはこの辺り使える材料というのも家によって厳格に決められていたのではないかと推測する。
・山銅鐔の謎
室町時代の鐔の材料で多く使われているのが山銅、もしくは練革である。
後藤家上三代が赤銅や金無垢を使う中、同様のような作風の鐔が残っていないのはどうした理由からだろうか。
そして山銅地に金や銀の点象嵌を施すなどやたらと凝った装飾の鐔が存在しているのも疑問を更に深くします。
いずれにしても赤銅という素材は室町期において格を示す特別な素材であったようにも感じるので、この辺りもう少し調べてみたいと思います。
・終わりに
戦国の動乱の中、桃山時代という様々な芸術が花開く時代に刀装具にも明寿や金家といった人を中心に革命が起き、へし切長谷部の拵などの存在を見るようにこれらの作が大名間で好まれるという一大トレンドが巻き起こりながらも、後藤家は後藤家で豊臣や徳川の下、伝統ある格調高い刀装具のしきたりを大切に守り続けた結果が、江戸時代頃になり登城用の大小拵には後藤家の作が云々の話に繋がっていくのかもしれないとふと感じた。
後藤家も江戸時代、つまり9代程乗(1603~1673)あたりになってようやく縁頭や揃い金具が作られるようになる。
この時代にようやく横谷宗珉(1670~1733)や安親(1670~1744年)が登場してきて町彫が花開く時代でもあるので、この頃から縁頭や揃い金具を宗珉や安親が作っているのは冒頭にも書いたように時代の流行なのだろう。
今回の内容には間違いも多分にあるだろうから信用しないで頂きたいのは冒頭に書いた通りです。
何せ刀装具は横の広がりが凄まじく、他方に散らばった点を線で繋いでいく作業は困難を極め少し本を読んだからといってそれらが繋がっていくものでも無く…。
刀の地位を考えれば刀装具はその時代のトップクラスの技術を持った職方が協力し合い製作しているのは間違いないだろうか、その時代の文化は刀だけでは語れず、書や絵画、服装、仏像、茶器、食器、貨幣、宗教など様々な物を多角的に見て行かないと正しい時代の姿は捉えられないはずである。
少しづつ知識を付けていきたい。
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↓この記事を書いてる人(刀箱師 中村圭佑)
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