その瞬間の記録-23-10-16
こんばんは。
そして久方ぶりです。
気づいてみると前回の更新からかなりの時間が経っていました。
書くことも、書けることも見つからずの日々を過ごしていたように思う。
最近というか、なんというかわかった事がありました。
相手に対して自分の中の気持ちの何が勝っているかで相手への対応って一瞬で変わるんだなって。
正直に言って、相手のことを真の意味で理解することはできないはず。
だから何を基準に相手のことを知るかって、それは自分基準でしかないと思う。
だからこそ相手と自分の違いに気づけるんだと改めて分かった。
恋愛で考えてみた。
あくまで偏見だし、個人的解釈です。
世の中には外見至上主義という『ルッキズム』が強いと思っている。
外見を好きになる=その人の中身はどうでもいいっていう考えの人は、その人のことを知りたいというより、その人自身が好きであるということだと思う。極論だから性格も大事なことはもちろんある。
逆に内見(性格)で決める人というのは、その人自身の何か自分にとって魅力に感じる部分に惹かれて好きになっていくんだと思う。
共通してあるのはどちらも結果的に相手のことが好きという前提がある。
でも大きな違いもある。
それは、相手のことを受け入れる、理解する土壌の大きさだ。
第一印象でほとんどが決まるというのは、性格においてもそうだし、何においてもそう。
でも、これって受け取り手によって全然変わる。
だって好きな性格も好きな外見も人によって違うから。
ここから最近分かったこと。
相手のことを知りたいと思う気持ちは、好きという気持ちから来るもの。
相手に対して自分が共感を得たいというのも好きから来るもの。
外見がタイプっていうのも、外見が好きということ。
全て自分の都合だし、相手に対して自己補正かかってない?って自分で思ったんだ。
何が言いたいかって、自分の思い込みと実際が違ったとき、人は何かしらに落胆する。
でも、それよりも好きが自分の中で勝っているから、関係を維持してる。
至極当たり前のことなんだけど、当たり前じゃない。
違うことを受け入れることができないこともあるからだ。
言ったように、人の心は真に理解できない。
だから行き着く先にあるのは、その人自身のことが好き、なんでかわからないけれど好きというのはとても幸せなことなんじゃないかって思う。
別に何をしたっていいっていうわけじゃないけれど。
そもそも一緒にいたいとか、何かを共有したいって思うのは相手がその人だからできることであって、誰でもいいわけじゃない。
それはお互いが相手にそうであって欲しいって思うから。
そこにある種条件(自己補正)をつけることは相手に対して、プレッシャーになってしまうことの方が大きい。
例えば、この人は優しいから好きとか、顔がかっこいいから好きとか。
だからこそ思う。
違うくて当たり前だし、違うからこそその人のことを知りたいって。
何かがあるから好きではなくて、受け入れてるから好きっていうふうな。
自分本位だし、勝手なことだけど初めて何かを知った時、得した気分になるのと同じで知りたいという欲は好きから来るものなんじゃないかな。
断定した相手の情報だけが全てじゃない。
受け入れることの大事さをとても学んだ気がする。
こうじゃなきゃ嫌だ。とかこれが合わないから嫌だって気持ちがあることはとても分かるし、人間違うからそんなこと当たり前だと思ってる。
だからこそその人のことをたくさん知りたい。受け止めたい。
勝手な思い込みで決めつけない自分の枠に当てはめないっていうことを心がけたいな。
好きでいたいじゃなくて、好き。という言葉の後ろに何もつけなくていいような、そんな恋愛をしたいって思った。
とっても長くなっちゃった。
最後まで読んでくれてありがとうございます!