小さな紙漉き 手から湧き出る‥小さな気づきJan.2024
久しぶりの水仕事から思うこと
頂いた年賀状のお返事にと、小さな紙すき。
うちにある、とびきりの紙をちぎり。
去年育てたカレンデュラの花弁やカモミール、長く長く咲いて、やっとの寒さで朽ち果てようとしているマリーゴールドの塊になった種をほぐしながら、どんなお手紙にしようか、想像にふける。
種を漉き込んだ手紙、土に埋めればきっと芽が出る。そんな春の便り。
美大生の頃、富山と岐阜の山間部にある五箇山に行って、楮から紙ができるまでの、そのとてつもない過程を学びに行った。
そして、五箇山和紙を使って暮らしの灯りを作るという課題、、、。五箇山和紙の触り心地、しなやかな強さが今でも手に残っている。
徹夜しながら、あーでもない、こーでもないと、とにかく触りまくる。素材と仲良くなる。これがわたしの原始的な造ることの始まりだから、とても印象的な課題だったのだ。
なんども小さな紙を漉くたびに、紙のなかには、水の記憶が残っていることに気づく。
わたしはそこに惹かれていたのかもしれない。五箇山でも、ラオスでも、タイでも。
紙はその地、そのものなんだ。
日々暮らしの中で、紙に触れない日はない。均質でツルツルしたパッケージや、プリントや、本、、、うっかり、紙という素材を意識することをいつの間にかやめていた。
水の記憶と、植物の記憶とが溶け合い、そこにあらわれたもの、それが紙。
お日さまの下で、木漏れ日のなかで、繋いだ水はまたどこかへ行き、再び新たないのちを吹き込んだ感覚。
こんどは、レモングラスとか、大根とか、、、繊維そのもので、畑の紙を作ってみようか。
同じことで、先日、洗濯機の中で、下の子のポケットの中に潜んでいたティッシュと、洋服と溶け合った。かなり怒り狂うものを胸の中に確かに感じた(笑)
可笑しいね、おんなじ体験なのに。
そんなこんな、今日この頃。
いつ届くのだろう‥‥そこは考えない、わたしという生きもの(笑)