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親切の、すれ違い

一定数「話が通じない」人はいて、その場合はたいがいが向こうもこちらのことを「話が通じない」と思っています。

たとえば、よく知らない人から「このお菓子あげます。おいしいですよ。いま食べてください」と言われたとします。それを受け取らない理由はたくさんあります。たとえば、よく知らない人からもらったものを食べたくない。今はお腹が空いていない。そもそも甘いものが好きではない など。

これらのどれを伝えたとしても、私の思う話の通じない人は「せっかく人が良かれと思ってあげたのに」と残念そうな顔をしてきます。

そういう人は次に「では食べ物がいらないなら、ジュースはどうですか?これおいしいですよ。飲んでください」と渡してきます。 これまた、こちらとしては同じ理由で断ります。 自分がよかれと思ってやったことで、相手が喜ぶと限らない。そんな基本的なことが分からないのです。

で、お菓子と、ジュースと、次々と断っていると次第に、相手は「こちらがこんなに色々としているのに、なんで受け取らないんだ。同様のことを返してくるわけでもない。何なんだこの人は、失礼な人だ」と怒りだすのです。

そろそろ相手は何かを回収したくなるらしく「私がつくっているビーフジャーキーです。買ってください」と自社の通販サイトを送ってきます。なので「すみません、この前ビーフジャーキーを一年分買ってしまったんです。今は買いません」と苦し紛れに答えます。そもそも、ビーフジャーキーは好きではないので一年に一回も食べないんだよな…と思いながら。しまいには「あなたが買わないなら、誰か友達に買わせてください」と言われます。いよいよツライ。「私がそんなことをする義理はありません」と返答する。 そうすると、もれなく「あなたは、なんて失礼な人なんだ。人として終わっている」と捨てゼリフをはかれる。そんな構造になっています。

ここで気づくのは、誰も悪くないことです。相手もよかれと思ってやっているから。 思いやりのセンスが、徹底的に合わないだけ。悪いのは、相性なのです。

「話し合えば分かり合える」というのは、話し合える場合のみ分かり合える可能性があるというだけであり、話し合える関係性でなければ、話し合いになりません。 特に「自分が」「自分が」という自分視点しかない人は、自分が正義です。何かあったら、自分を正当化したい。 世の中、謙虚な人ばかりではないのです。

品のいい謙虚な人間性の高い人とばかり関わっていると、世の中はみんないい人なんじゃないかと錯覚してしまいます。 一歩外にでれば、恐ろしいほど話がかみ合わない人は多いのです。そこで自分の正義を通そうとすると、正義と正義がぶつかり合います。ここまで話し合いが無理だと、血気盛んなほうが手をあげて、暴力に発展するんだろうなという想像はつくようになってきました。

親切の相性が合わない人とは、距離をとる。関わりを減らす努力をする。お互いのために。今しばらく、人間関係におけるスタンスとして、この辺りを意識してみようと思います。

目が覚めたというか、冷静になったというか。大切な人・こと・ものを守るために、頭の中がお花畑ではいられないなと気を引き締めた所存です。

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