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神奈川の虚無僧寺『探墓行』其のニ☆ 伊勢原神宮寺


虚無僧さんたちのお墓参り『探墓行』🙏の神奈川篇です。

今回は小田急線伊勢原駅から歩いていける伊勢原大神宮にある照見山神宮寺跡地から『探墓行』スタート!

神奈川には三つの虚無寺があったとのことで、前回その一つ西向寺について書きました。最後に訪れましたが、こちらが其の一となっております。いきさつについてもこちらをどうぞ↓



伊勢原駅には 祝「大山詣り」が日本遺産に認定! の横断幕。



こちらは神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』の表紙。

表紙撮影・牧嶋志洞師



ピンクで印をつけましたが(写真が鮮明でなくてすみません)、大山の麓に、これから行く神宮寺、虚無僧の墓がある大福寺、神宮寺の菩提寺である普済寺が写っています。


駅の改札のある窓から大山が見えるので、ここから撮ったのしらと思いましたら、鳥居が見えないので違いましたね😅

また次回、この三寺見えるスポットに来なければ!



伊勢原」の地名の由来は、湯浅清左衛門という人が、たびたび鎌倉より大山参詣をしているときに、野宿した松原の千手原で水音を聞き、開墾可能と知り、開墾許可を願い出て、伊勢からやって来た山田曽右衛門と共に開墾に成功した。そしてこの地に曽右衛門の故郷伊勢の大神宮を勧請かんじょうし、一村の鎮守とした。この神社にちなんで、開墾地を伊勢原と呼ぶようになったそうな。元和6年(1620年)のこと。
この辺りは「千手ケ原」と呼ばれる松原だったそうで、それが伊勢原になったんですね。お伊勢さん由来の地名は、伊勢崎など全国に幾つかあるようです。


伊勢原駅北口の大鳥居。



尺八研究家の神田可遊氏引率のもと、てくてく歩いて行きます。


虚無僧寺、照見山神宮寺は、現在の伊勢原大神宮(当初は神明社)の境内の一角にありました。

江戸時代後期の神宮寺境内図。
神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』より。

敷地や道路などは昔のままのようです。
神宮寺の所在地は、伊勢原神明社の左側とのことなので、黄色い丸で囲った建物が神宮寺であったと思います。



神宮寺じんぐうじというのは、神社に付属した寺院で、仏教の僧侶が神祇に奉仕するために、神社の境内などに建立され、そこに住んでいた僧侶は社僧といって仏事を修する僧侶としての役目も果たした。明治時代の廃仏毀釈でほとんどの寺院が神社に転向、あるいは消滅するなどし急速に数を減らしたとのこと。

  • 【神祇(じんぎ)】とは、天神地祇てんじんちぎの略。天神は「あまつかみ」とよび、天上で生まれ、あるいは天上からくだった神。


まずは、鳥居でみなさんパシャリ📷



伊勢原大神宮いせはらだいじんぐうは、伊勢と同様、内宮、外宮と2つ社殿を設けている珍しい神社。

大きなクスノキのご神木と内宮、外宮。
七五三やってます。


伊勢原大神宮のHPはこちら↓


因に、大神宮のHPには、神社境内にある虚無僧寺の遺跡のことは一言も書かれていない...。





虚無僧の遺跡が、ここ境内にあります。


伊勢原の町が開かれたのは江戸時代のはじめ、元和年間(一六二〇年頃)と伝えられています。旧神明社(大神宮)創建と同じころ、神社の管理に当たる別当寺が境内に置かれ、それが照見山神宮寺という普化禅宗の寺でした。
普化宗は中国(唐)の普化禅師を祖として、鎌倉時代に禅僧と共に渡来したと言われ、尺八の音と結びついて広まりました。
普化宗の僧は虚無僧と呼ばれ、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護もあって武士が入門し、寺の通行手形を持って全国往来が自由でした。
天蓋をかぶり、免状(本則等)をふところに尺八を吹き、托鉢吹禅をしながら各地を歩いて修行を重ねました。
虚無僧が吹いた尺八の曲は、無名の人々によって吹き継がれ、今日に至っています。
普化宗は、明治四年太政官布告により廃宗となり、神宮寺の建物は明治七年には、一時期、伊勢原小学校の前身として使われましたが、今は境内に石灯篭を残すのみです。
照見山神宮寺は活惣本山鈴法寺(東京都青梅市)末寺頭として相模、足柄、小田原、伊豆一円を寺場とし巡回した記録が残されています。
鈴法寺で幕府と普化宗についての多くの記録を残している嘯山勇虎をはじめ神宮寺歴代の墓は大福寺にあります。

照見山神宮寺奉賛会掲示板より




昭和39年(1964)に高橋空山師が神宮寺の歴代住職墓碑を大福寺で調査したという。
高橋空山著『普化宗小史』によると、

活総派 照見山神宮寺 伊勢原市北側247小学校敷地
敷地二八七坪 本尊 普化画像歴代 
1)風月雲晴 寛永十三・七・十一
2)寿山風雲 又は、益道意・寛文四・七・二七
3)法雲無形 寛文六・四・二七
4)心翁念外 元禄六・十・十七
5)空覚了道 享保八・五・十六(墓は大福寺)
6)蘭山快秀 延享四・一・二六
7)空山祖来 寛永(原文ママ)八・六・廿三(墓は大福寺)
8)竹渓嘯虎 文政十・七・三
10)閑山戢我 天保八・八・四

この寺の隣の愛宕社に向かって右側の石灯籠の銘に「照見山神宮禅寺空山祖来代。願主越光弥七郎、越光堯重郎とあり、左側のには「延享丁卯祭。願主同名」とあり、釣鐘には「照見山神宮寺快秀代」とあり、手洗鉢には「照見山神宮禅寺兼現住閑山戢我」とある。尚、この寺は鈴法寺の隠居寺だった。

高橋空山著『普化宗小史』より



9世の記載なし。
空山祖来の寛永は1624年から1644年までの期間を指すので寛政の誤植かと想像します。
そして大神宮境内にあった釣鐘は戦争中供出してされてしまったとのこと。天下泰平を願った寺の鐘が戦争に使われたとは悲しいことです。
銘文は残されており、神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』に記載されています。とにかく詳しく神宮寺について書かれている。この本は国立国会図書館に蔵書されているようです。




その後、虚無僧研究会会長の小菅大徹師が昭和42年(1967)に改めて調査。この時、文化財調査で神宮寺の菩提寺である普大寺の過去帳を見つけるに至る。


(一)歴代住職
普化禅宗 諸流触頭 活惣派総本山鈴法寺末頭寺
照見山神宮禅寺 相州大住郡伊勢原

 歴代住職

開  山 雲晴風月和尚 寛永十三年(1636)七月十一日
中興開山 風雲寿山和尚 伊勢原「加藤政次郎氏」談・同家祖先虚無僧慶安年中(1648〜52)頃示寂
中興開山二世 益道意公首座 寛文四年(1664)七月廿七日
三  世 法雲無形蔵王 寛文六年(1666)四年廿七日
四  世 心翁念外上座 元禄六年(1693)十月十七日
中興開山五世 了道空覚上座 享保八年(1723)三月十六日 正徳二年六月寺院再築
中興開山六世 蘭山快秀首座 延享四年(1747)一月廿六日
鈴法廿六世当寺隠居 嘯山勇虎禅師 明和六年(1769)十月初九日
七世鈴法寺廿七世 空山祖来禅師 寛政八年(1796)六月廿三
八世乙黒明暗九世 雲山雄長大和尚 寛政四年(1792)八月十四日
九世鈴法廿八世 竹渓嘯虎禅師 文政十年(1827)穐七月三日(穐=秋)
十世鈴法三十世 閑山戢我和尚 天保八年(1837)八月四日 行年七十五歳
十一世鈴法丗一世 無着愛璿和尚 天保十二年(1841)四月十日 俗名旗本下倉橋氏ノ貳男行年五十一歳
十二世鈴法丗二世 澄源有道和尚 慶應元年(1865)十二月廿七日 俗名三田氏行年七十五歳
十三世鈴法住職代 瀧源海我和尚 明治中期(1883〜97)頃示寂俗名旧尾張藩士笹岡八十之亟 

創建 元和六年(1620) 
開基 加藤家(推定)・寺紋 五三ノ桐

神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』
30~31頁(一)歴代住職より


【示寂(じじゃく)】とは高僧の死の意。



ここで、和尚、首座、上座、禅師などなど、肩書きが色々出てきたので調べてみました📖

僧侶には4つの階級が設けられており、下から「上座」「座元」「和尚」「大和尚」となっているとのこと。(曹洞宗)
禅師ぜんじ」とはもともと、禅の修行を積んだ僧侶、禅僧に対する呼び名であった。
首座しゅそ」とは、禅寺で修行僧中、首席にあるものをいう。

「蔵王」が分かりません。ご存知の方、ご教授くださいませ🙇

こちら曹洞宗ですが、わかりやすく解説があります↓
https://www.zen-essay.com/entry/souryo-yobikata


おなじみ、仙石騒動で活躍(暗躍)した無着愛璿もこのお寺で十一世住職を勤めているんですね。





神宮寺前にて献奏。

「大和楽」を献奏。




遺跡



石灯籠三基。
正面には「奉献石灯篭」
左側「願主 越光弥七郎 越光嘉十郎」
右側「延享四丁卯祭」(一番右には無し)


石造円柱と石灯籠。


恐らく左から三番目の石灯篭が、神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』によると、「高さ105センチメートル。墓前灯篭で延享四年(1747)に亡くなっている六世蘭山快秀の為の供養灯篭と思われる」ものでしょうか。

一番右と一番左の石造円柱のどちらかの裏には「照見山神宮禅寺空山祖来代」とあるそうです。



神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』の神宮寺の遺跡の項では、「石灯篭三基、石造円柱一基、手洗鉢」とあるが、今現在は「石灯篭四基、上の部分が無い石灯篭?一基、石造円柱二基、地蔵一体」となっている。以前は違う場所にあったのか、一ヶ所に集められているようです。これも要確認事項。
石灯篭三基と、石造円柱は同じ事が書かれているので、同じ時に作って別々の場所に置かれていたのだろうか。あと、手洗鉢が無い。神田可遊氏が確認されたところ劣化がひどく撤去されたとのこと。「文政十二巳丑年九月二十二日 照見山神宮禅寺閑山戢我代」とあったが今では読み取ることもできない。と、『伊勢原神宮寺史』にある。ただの石となってしまった...。まことに残念。



こちらは、神宮寺で発行された本則のコピー。

厚木市下萩野の井上家文書。
「照見山神宮寺奉賛会掲示板」にも写真がある。
奉賛会の渡邉照洞氏より。


本則というのは、一定の修行をした虚無僧に寺から与えられる宗門の僧であるという証拠書類のこと。
最後に「神宮寺現住空山祖来叟」とあります。
現物のコピーとのことで、1700年代の本則がこんなに綺麗に保存されているとは。
『伊勢原神宮寺史』にはその他多くの関係資料が記載されています。




神宮寺史の調査について。




昭和五年(1930)に、犬飼虚無洞師という尺八家が神宮寺の前に来て、神主さんにここは昔虚無僧寺があったところと聞き、その後虚無僧の墓前で献笛を時折していたとのこと。その後、近くの大福寺内に虚無僧の墓があることが分かり、そこで毎年献笛を行ってきた。それから三十数年後の昭和39年(1964)に高橋空山師が神宮寺の歴代住職墓碑を大福寺で調査、そして、昭和42年(1967)小菅大徹師、伊勢原教育委員会の安達委員の調査が続き、昭和46年(1971)、虚無僧研究家の飯田任風師が遺跡調査。石綱清圃師編集「虚無僧旅日記」にも詳しく紹介されているとのこと。(「虚無僧旅日記」是非読みたい...。)そして『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』は1996年に発行されているので、その前に識者の方々によって詳しく調査されたことと思います。



さて次は、神宮寺関係の住職の墓がある大福寺へ。
長くなりましたので次回へ続きます!



参考文献
高橋空山著『普化宗小史』
神宮寺奉賛会『相模国虚無僧寺 伊勢原神宮寺史』

古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇