邦楽というものはどういうものかという事を、実に分かりやすく言葉にされているので、こちらにご紹介したい。
それは、1960年に出版された『日本音楽』の中の高橋空山著「邦楽は単調か」に、書かれている。
最近は邦楽の範囲が広くなり、J-POPも邦楽の内に入るなんていう話も聞いたことがありますが、1960年に書かれたものとご了承いただきたい。
「なぜこんなに尺八に魅了されるのか」という漠然とした疑問が少しは解決するかもしれない。
別に好きだから吹いているのだから、そんなことをいちいち深く考えることもないのですが、とかく人は考えを言葉にしたいものだし、視覚的に文字に残されているとまさにそれが正解のような気がするものなのだ。
現代においては、悪い意味で単調であると評する人はいないと思うので、ここはサラッと流したい。
そうであります。
まさに、古典尺八の世界観。
「自分がわかればよい」のであるのが、自分自身が分かる(理解できる)感性を持ち合わせてのことだ。
分かったつもりで理解や解釈ばかりが先立って音がついていっていないのもジレンマであるし、「単旋律」「無表情」なものなのであると決めつけて、やたらめったら同じ音を吹き続けるのもどうかと思います。
人の迷惑にはならないようにと、狭い音域、単旋律、無表情であるというのがまことに日本的。
古典尺八奏者が集まると、まぁ尺八についてよく喋ること。
機械の一部になるのもまた興ありで、どれだけ徹底して完璧に万事を尽くせるか、に挑むことも楽しそうでありますが。
深いんです…。
でも、全く解釈にならない散文詩も深いは深い。
どちらも行き着く果ては限りなく深い気がいたします。
さて、これくらいにしておきますが、
こうして、高橋空山の文章を読んで納得してしまうとまるで、そうか邦楽は「論語」なのだ!なんてまた小難しい音楽なのかのように解釈してしまいがちですが…、
「論語読みの論語知らず」
になってしまわぬよう、気をつけたいものですね。
(高橋空山の文章に、私が勝手に言いたいこと書いるだけでありますので、どうぞご容赦くださいませ。)