「虚鐸伝記」を読み解く其ノ五☆楠木正勝、即ち元祖虚無僧登場!
其の四からすっかり間が開いてしまいましたが『虚鐸伝記』の続きです!
其の四はこちら↓
前回は、寄竹が虚空蔵菩薩堂でみた夢のお話、古伝二曲伝説でした。
張伯から十六代の張参まで吹き継がれていた曲は一体どーなっちゃったんでしょうね!?
張さん一家が登場する其の一はこちら↓
その後、
霧海篪 、虚空篪の二曲は吹き伝えられていきます。
近江の国、志賀の虚風の家に虚無が会いに行くの図
「虚鐸伝記国字解」より
以下、漢文が「虚鐸伝記」
かな文字入が「虚鐸伝記国字解」です。
その下に私の簡単な日本語訳。
晩年、寄竹は京都の東に住んで近辺を行き来していた。そしてついに虚鐸で、霧海篪、虚空篪を塵哉に教え、塵哉は儀伯に教え、儀伯は臨明に教え、臨明は虚風に教え、虚風は虚無に教えた。
【敏達天皇(びだつてんのう)】538 - 85年 日本の第30代天皇
【後胤(こういん)】 子孫
虚無とは敏達天皇の子孫、楠木正勝のこと。南朝破れ一門は壊滅。勇ましく強かったけど、どうすることも出来ず、隠居して近江に居た虚風に会って尺八を教わる。
ここに、虚無の出で立ちを記す。虚無は髪を伸ばしたまま、坊さんの格好はせず模様無しの普段着で、小さめの袈裟をかけて、その上に三衣袋をかけて、顔を覆う為に丸い笠を被った。
虚無は城下町を行き来して家々の前で虚鐸を吹いたとさ。
今回はここまで。
さて、突然登場した、「虚無」こと
楠木 正勝とは!
(虚無という名前にするところが、ストレートすぎ!)
南北朝時代の武将。日本の軍事史に大きな影響を与えたという楠木正儀の嫡男で、祖父は後醍醐天皇の寵臣であり、軍記物語『太平記』の武将ヒーロー、楠木正成。父、正儀の死後、楠木氏の勢力は衰え、さらに室町幕府の三代将軍足利義満の奇襲作戦も失敗。難攻不落といわれた本拠地である要塞千早城を落とされる。正勝は、南北朝が正式に統合した後もなお、室町幕府に徹底交戦するも、応永6年(1399年)応永の乱の敗走中に負った創傷により、翌応永7年(1400年)死亡したとされる。
関東系虚無僧寺縁起の書物『尺八筆記』でも、天皇直々に山号寺号の金龍山寺一月寺という名前を賜るとあるし、北条経時という23歳で早世した鎌倉幕府の4代執権との関わりや、三浦の一族ということで、鎌倉幕府の御家人の戸部氏が虚無僧の始まりという事が書かれている。鎌倉時代は鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であったので、両方の権力をも持った人、そして虚無僧はどちらにも転べるという何とも抜け目の無い人選。『虚鐸伝記』はまた関東系とは少し変えて、天皇系のお墨付きを伝説に結びつけ、楠木正勝という死後に伝説を残している武将を虚無僧に仕立てている。こちらも伝説にするにはもってこいの人だったようです。
…と、突然楠木正勝が登場したかのようですが、岡田冨士雄著『虚無僧の謎』によると、虚無僧は南北朝の争乱で南朝側となって戦った楠木氏と深い関係があるとされている、とあり、三浦一族の戸部氏との関係も考察されています。南北朝の動乱の後、負け組の武将、楠木正勝は、部下であった武士浪人の言わばアイドルで、敗北者に誇りを与え、屈折した心を支え続けていたのであったとのこと。
中塚竹禅の『琴古流尺八史観』にも、鈴法寺ゆかりの青梅の吉野織部之助の吉野氏は南朝の楠氏の分かれ、末裔だとのことと書かれている。
『道歌心の策』とは、
禅宗各派や仏教各宗の開祖など、高僧一百人の和歌の中から、一人一首ずつを選び、その肖像画とともに木版に刻み、「道歌 心の策」と題し、天保四年(1833)に刊行されたもの。
こちらのブログに翻訳などが詳しく書かれています↓
こちらにも楠木正勝のことが書かれています。
法燈国師が宋にて張参から洞簫を伝承し、その門弟虚竹が「虚無宗」を開いたという事になっていること。
虚竹が晩年「普化」に努め、里人は「普化観音」と称し、没した後、門弟が普化塚を作った。(普化禅師は登場せず...)
法嗣(弟子)の明普が明暗寺と称し一流派を作る。その門弟たちは街中を吹簫してまわった。
そして楠木正勝伝説へと結びついています。
これは明暗寺の起源。
「虚無宗」とは?
と辞書にあります。
「虚無宗」=「普化宗」
とのこと。
虚無宗とは聞いたことなかったなー。
次はいよいよ最終回、
『虚鐸伝記』其の六☆虚無考案の新しい修行スタイル!です。