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「虚鐸伝記」を読み解く其ノ五☆楠木正勝、即ち元祖虚無僧登場!

其の四からすっかり間が開いてしまいましたが『虚鐸伝記』の続きです!

其の四はこちら↓



前回は、寄竹が虚空蔵菩薩堂でみた夢のお話、古伝二曲伝説でした。



張伯から十六代の張参まで吹き継がれていた曲は一体どーなっちゃったんでしょうね!?


張さん一家が登場する其の一はこちら↓



その後、
霧海篪 、虚空篪の二曲は吹き伝えられていきます。

 


虚無初見虚風之図
江州志賀里虚風住居



近江の国、志賀の虚風の家に虚無が会いに行くの図

「虚鐸伝記国字解」より

 

 


以下、漢文が「虚鐸伝記」
かな文字入が「虚鐸伝記国字解」です。
その下に私の簡単な日本語訳。

 


晩年在于洛東徘徊于皇城終傳此音塵哉塵哉傳之儀伯儀伯傳之臨明臨明傳之虚風傳之虚無
  
きちくばんねん(寄竹晩年)、らくとう(洛東)にありて、くわうじやう(皇城)をはいくわい(徘徊)して、ついにこのいん(韻)をぢんさい(塵哉)つたうとは、きちくはとしよ(年寄)らるゝまで、みやこの東に住て、折々は王城の近辺をはいくわい(徘徊)して、ゆきゝせられけるが、つひには虚鐸、むかいじ(霧海篪)こくうじ(虚空篪)をじんさい(塵哉)におしへ、ぢんさい(塵哉)はぎはく(儀伯)におしへ、ぎはく(儀伯)はりんめい(臨明)におしへ、りんめいはきよふう(虚風)に教え、きよふうはきょむ(虚無)におしへし事なり。これらはまことに、じつをおしへつたへし事を明せり。


 

晩年、寄竹は京都の東に住んで近辺を行き来していた。そしてついに虚鐸で、霧海篪、虚空篪を塵哉に教え、塵哉は儀伯に教え、儀伯は臨明に教え、臨明は虚風に教え、虚風は虚無に教えた。
 

 

 

 

虚無即敏達帝後胤楠正勝也南朝微而一門盡没義気雖烈勇志雖剛知時之不可爲蟄入淡海之中會虚風而嗣此伝
 
きょむ(虚無)はすなはちびだつ(敏達)てんわうのこういん(後胤)くすのきまさかつ(楠正勝)なり。なんてう(南朝)び(微)にして、いちもん(一門)こと/\"く没しぬ。ぎ氣れつなりといへども、ゆうしかう(勇志剛)なりといえども、ときのなすべからずをしり、ちつ(蟄)してたんかい(淡海)のうちに入り、きょふうにくわい(会)して、此のでん(伝)をつ(嗣)ぐとはきょむは楠正勝にて有り。此時南朝は後醍醐天皇の御系なりしが軍利なかりし故、よしのゝ皇居、しだいにおとろへさせゐひ。南北利合の頃なれば、くすの木是非なく世をのがれたり。忠義に心をかためて、大勇のこゝろざしありといえども、此時いくさを起こしてもすでにかたむきし上は、よろしからざる事を能知りて、蟄すたるなり。蟄は蟄居にて冬虫のとぢこもりたる事なり。其ごとくにしばらくとぢこもり居られけるが、いつまでかくてあるべきなればしづかに近江國に立越えて虚風にあふ。きょふうも、つねならぬ士なれば、きょたくの傳をさづけければ、きょむ是をうけて時節をうかゞひし事也。

  • 【敏達天皇(びだつてんのう)】538 - 85年 日本の第30代天皇

  • 【後胤(こういん)】 子孫


虚無とは敏達天皇の子孫、楠木正勝のこと。南朝破れ一門は壊滅。勇ましく強かったけど、どうすることも出来ず、隠居して近江に居た虚風に会って尺八を教わる。


 

不剃髪不著法衣服俗衣不爲文穿掛絡抱米嚢完圓笠以蔽面
 
是はそれより、きょむが身のふるまひをかきし事なり。其かたち、かみをそらずとは、有はつの姿にて、坊主になる事をやめし事なりほう衣をきずといふは、衣をきずして、俗衣をきたる事なり。ぞく衣とは、つねに人々のきるものなり。もんをなさづとは、もん(文)、もやう(模様)、しまるい(縞類)をきる事なり。かけらく(掛絡)をうが(穿)ちとは、かけらくは小さき袈裟の白條あるをきるなり略せるもありと見えたり。うがちとはかける事なり。べいのう(米嚢)をいだきとは、今の三衣袋をかけし事なり。くはんえんりつ(完圓笠)をもってとは、顔をおふためにあみ笠のまるきをもってかくせしことなりとしるべし。


ここに、虚無の出で立ちを記す。虚無は髪を伸ばしたまま、坊さんの格好はせず模様無しの普段着で、小さめの袈裟をかけて、その上に三衣袋をかけて、顔を覆う為に丸い笠を被った。



逍遥于城市戸戸発虚鐸

ぜうし(城市)にせうえう(逍遥)してこゝにきょたく(虚鐸)をはつ(発す)とは、右のかたちにて、所々の城下町々村々の家々の門戸の外にて、きょたくをふき、しゅぎょうしあるかれし事なり。


 

虚無は城下町を行き来して家々の前で虚鐸を吹いたとさ。
 

 

 

 

今回はここまで。

 

 

さて、突然登場した、「虚無」こと  

楠木 正勝とは!


 

(虚無という名前にするところが、ストレートすぎ!)



南北朝時代の武将。日本の軍事史に大きな影響を与えたという楠木正儀まさのりの嫡男で、祖父は後醍醐天皇の寵臣であり、軍記物語『太平記』の武将ヒーロー、楠木正成。父、正儀の死後、楠木氏の勢力は衰え、さらに室町幕府の三代将軍足利義満の奇襲作戦も失敗。難攻不落といわれた本拠地である要塞千早城を落とされる。正勝は、南北朝が正式に統合した後もなお、室町幕府に徹底交戦するも、応永6年(1399年)応永の乱の敗走中に負った創傷により、翌応永7年(1400年)死亡したとされる。




  

 

「前賢故実」 巻第10
菊池容斎 (武保) 著 
明治36年
国立国会図書館所蔵 




関東系虚無僧寺縁起の書物『尺八筆記』でも、天皇直々に山号寺号の金龍山寺一月寺という名前を賜るとあるし、北条経時という23歳で早世した鎌倉幕府の4代執権との関わりや、三浦の一族ということで、鎌倉幕府の御家人の戸部氏が虚無僧の始まりという事が書かれている。鎌倉時代は鎌倉幕府と朝廷の公武二重権力であったので、両方の権力をも持った人、そして虚無僧はどちらにも転べるという何とも抜け目の無い人選。『虚鐸伝記』はまた関東系とは少し変えて、天皇系のお墨付きを伝説に結びつけ、楠木正勝という死後に伝説を残している武将を虚無僧に仕立てている。こちらも伝説にするにはもってこいの人だったようです。


…と、突然楠木正勝が登場したかのようですが、岡田冨士雄著『虚無僧の謎』によると、虚無僧は南北朝の争乱で南朝側となって戦った楠木氏と深い関係があるとされている、とあり、三浦一族の戸部氏との関係も考察されています。南北朝の動乱の後、負け組の武将、楠木正勝は、部下であった武士浪人の言わばアイドルで、敗北者に誇りを与え、屈折した心を支え続けていたのであったとのこと。
中塚竹禅の『琴古流尺八史観』にも、鈴法寺ゆかりの青梅の吉野織部之助の吉野氏は南朝の楠氏の分かれ、末裔だとのことと書かれている。
 
 

 

歌川 芳虎 画
「大日本六十余将」「和泉 楠正勝」
演劇博物館所蔵



 

『道歌心の策』にある楠木正勝。

楠三良兵衛正勝
笛竹の 声の あるじを 尋ぬれば 地水火風の 四大なりけり


『道歌心の策』とは、
禅宗各派や仏教各宗の開祖など、高僧一百人の和歌の中から、一人一首ずつを選び、その肖像画とともに木版に刻み、「道歌 心の策」と題し、天保四年(1833)に刊行されたもの。

こちらのブログに翻訳などが詳しく書かれています↓




こちらにも楠木正勝のことが書かれています。

『宇治誌』 宗形金風 著
国立国会図書館所蔵
『宇治誌』 宗形金風 著
国立国会図書館所蔵


法燈国師が宋にて張参から洞簫を伝承し、その門弟虚竹が「虚無宗」を開いたという事になっていること。
虚竹が晩年「普化」に努め、里人は「普化観音」と称し、没した後、門弟が普化塚を作った。(普化禅師は登場せず...)
法嗣(弟子)の明普が明暗寺と称し一流派を作る。その門弟たちは街中を吹簫してまわった。
そして楠木正勝伝説へと結びついています。
これは明暗寺の起源。


「虚無宗」とは?

中国、唐代の禅僧普化(ふけ)を祖とする禅宗の一派。虚無(こむ)宗ともいう。

日本大百科全書(ニッポニカ)



と辞書にあります。

「虚無宗」=「普化宗」

とのこと。
虚無宗とは聞いたことなかったなー。





次はいよいよ最終回、
『虚鐸伝記』其の六☆虚無考案の新しい修行スタイル!です。



参考文献

岡田冨士雄著『虚無僧の謎』
中塚竹禅師著『琴古流尺八史観』
宮地一閑著『尺八筆記』

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kataha
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