静岡の虚無僧寺 無量寺☆『探墓行』🐾其の一
駿府城からほど近い場所にある虚無僧寺、無量寺。
福聚(寿)山無量寺
所在地
駿州有渡郡安東村
後の地名・有渡郡府中清水之内
現在:静岡市音羽町清水山公園
本寺
金先派末寺頭 青木山天晴院西向寺
西向寺についてはこちらに少々↓
菩提寺
高野山真言宗 音羽山清水寺
静岡市音羽町清水山41
建物
本堂 二十畳
庫裡
八間×六間
寺跡
百米四方位
本尊
阿弥陀菩薩像
伝行基僧正作。一刀三禮鉈作。
木造・立像・壱体。
菩提寺清水寺に現存と伝承有り。
尊像観世音菩薩像 一体
菩提寺清水寺に現存。
天保十四年(1843)の『駿国雑志』にはこう記載されている。
『駿国雑志』とは、駿河国(静岡県中部)の地誌。文化14年(1817)に駿府加番を拝命した阿部正信は、1年間の在任中に資料の収集や現地調査に着手し、江戸に戻ったのちも調査研究を重ね、天保14年(1843)に全50巻の本書を完成さた。
歴代位牌一基(音羽山清水寺所蔵)
<表面に名前、裏面に示寂年月日>
七代目住職には、出石藩の神谷転を助けた無着愛璿、三代目には平井権八を助けた随川恵尽の名がある。
天保年間に三名もの住職が代わり、しかも居士が寺の世代に加えられているのは、他に類を見ないとのこと。
尚、五代の仙長の死を巡って、弟子の東郷による毒殺と訴えた弟子の帰世、下男の常吉らが処罰された裁判記録が『百箇条調書』に載せられている。
また『駿府風土記』(刊行年不明)の「無了寺」には、
無量寺を訪れた人(著者)が、襖越しに有髪の僧と言葉を交し、たばこ(烟艸)の火を台所の竃から貰い、謝礼して退いた。下の坂から見上げると、その人物は年齢四十あまりの惣髪で、見た目が普通でない風采であった。
といったような内容。
興味深い内容です。
東京国立博物館の文献『於保呂布称』の中の「虚無僧定法書」によると無量寺の取次連中の名前が遺されている。
【取次連中】というのは、本則を無量寺に取り次ぐ尺八指南役の人のこと。
6人の取次連中がいたことがわかります。
「無量寺現住 仁嶽儀道」とありますが、仁嶽儀道という人は歴代住職に名前がないようです。
宝暦10年(1760年)の頃は、駿府城は幕府直轄領の頃。この頃に、取次連中が六人も居たということは、尺八を吹く人が、駿府には幾人かいたということが伺われます。
旧東海道の地図が伝馬町にありました。
こうして見ると駿府城の目と鼻の先に虚無僧寺があります。
城下町も宿場町もすぐ近くですね。
いろんな人が無量寺には出入りしてたのかな、と想像膨らみます。
ようやく無量寺『探墓行』です👣
静岡駅からスタート!
静岡鉄道の線路沿いに東に向うと小さな山が見えてきます。
まずは、山の北側から。
まずは、
「日本虚無僧」の碑。
新しい遊歩道ができており、いかにも廃道となっております。
今後の保存が心配です。
そして、「日本虚無僧」の碑を建立した理由を知りたいですね。謎ですね、これは。
そして無量寺跡地へ。
…と、ここかなと思ったら、
別の場所に入り込んだようです。
何か石碑がゴロンと転がっている…。
調べてみましたが、これが何故ここにゴロンとしているのかは不明…。
開けた場所に出ました。
恐らく、ここですね。
感慨深い…。
もしかしたら虚無僧の誰かが踏んだ石ころかも。
と、思うとますます感慨深い...。
こちら側は開けてます。
頂上に行ってみます。
清水山古墳
古墳だったんですね。
石碑が立っています。
余談ですが、静岡市内で空襲を経験した女性から聞いた話によると、街中の空襲から逃げてきたら、真っ先に軍人さんが山にいたと話してくれたのを、思い出しました。
下山して、
虚無僧の墓がある、菩提寺清水寺に向かいます。
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