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静岡の虚無僧寺 無量寺☆『探墓行』🐾其の一


駿府城からほど近い場所にある虚無僧寺、無量寺。


福聚(寿)山無量寺



所在地
駿州有渡郡安東村 
後の地名・有渡郡府中清水之内

現在:静岡市音羽町清水山公園


本寺
金先派末寺頭 青木山天晴院西向寺


西向寺についてはこちらに少々↓



菩提寺
高野山真言宗 音羽山清水寺

静岡市音羽町清水山41



建物
本堂 二十畳

庫裡 
八間×六間

寺跡 
百米四方位

創建時元和後年(1620〜24)に、有渡郡橘村(橘木村)に創建され、寛文四年(1664)迄。
寛文五年に有渡郡府中御臺所町に移転。延宝元年(1673)迄。
二代目養眼澄意の代に、有渡郡安東村、後の地名、府中清水山に移転。



本尊

阿弥陀菩薩像

伝行基僧正作。一刀三禮鉈作。
木造・立像・壱体。
菩提寺清水寺に現存と伝承有り。


尊像観世音菩薩像 一体

菩提寺清水寺に現存。



天保十四年(1843)の『駿国雑志』にはこう記載されている。

「無量寺」有渡郡南安東村、音羽山清水寺内に有り。福聚山と号す。普化金先派武州神奈川西向寺末。開山羅風養岩、正保二年寂。寺伝云。当寺創庵年月詳ならず。慶長年間、東照宮御深慮を以、普化宗を武門の隠家と定給ふ。ここに於いて、元和の頃、所々宗門の寺院を興立す。其頃の開基也。はじめ当郡楠村にあり。寛文五年、府御台所町に移り、延宝二年看主養眼の時、今の所に移す。云々。有渡郡巡村記云。無量寺は、洛東大佛殿の南、妙安寺を本寺とす。云々。御朱所寺に非ずといへども、国中只一寺たるを以、ここに載す。

『駿国雑志』阿部正信編



『駿国雑志』とは、駿河国(静岡県中部)の地誌。文化14年(1817)に駿府加番を拝命した阿部正信は、1年間の在任中に資料の収集や現地調査に着手し、江戸に戻ったのちも調査研究を重ね、天保14年(1843)に全50巻の本書を完成さた。



歴代位牌一基(音羽山清水寺所蔵)


<表面に名前、裏面に示寂年月日>

興国開山 
法燈国師 永仁六年十月十三日
一月開山 
金先古山禅師 正嘉二年十月十三日
宗祖 
普化大禅師  唐大九十月十三日       
     日本斉衝二年也(註、文徳天皇)
清山西向開山 
寒江清山居士 慶安三年二月十四日
無量開山 
羅風養岩和尚 天保二年八月十一日
澄意養元座元 天和元年十月十二日
随川恵尽座元 享保十五年十二月十七日
蟻道顕竜座元 安永四年四月十日    
鶮山仙長座元 安永七年六月三日    
聖道宜周座元 天明二年十二月廿五日
現清山 
不着愛璿座元 天保十二年四月十日
現   
無関有道座元    
曉了文理居士 天保八年五月十二日    碧厳獅睡居士 天保八年十二月廿四日    明堂魏粲僧  天保八年十一月廿四日

    現清山兼無量看主 無関有道代

塚本虚堂師遺品『尺八史孝』に書き込まれたもの
神田可遊著『尺八研究 第4号』より
(干支は省略)




七代目住職には、出石藩の神谷転を助けた無着愛璿、三代目には平井権八を助けた随川恵尽の名がある。



天保年間に三名もの住職が代わり、しかも居士が寺の世代に加えられているのは、他に類を見ないとのこと。

尚、五代の仙長の死を巡って、弟子の東郷による毒殺と訴えた弟子の帰世、下男の常吉らが処罰された裁判記録が『百箇条調書』に載せられている。



また『駿府風土記』(刊行年不明)の「無了寺」には、

同所山道ヲ二三町超テ分ヶ登崕際と有り虚無僧の寺也 柴の折戸引結テ誠二閑居ナリ 予尋行ケル二住持ト見ユル有髪の僧襖越二詞ヲカハシ面謁セス臺所の竃の火ニテ烟艸給と斗云ハ謝礼シテ退キ 崕傳二下坂ヨリ見上レハ年齢四十余ノ惣髪障子ヲ開行方ヲ見送事暫クナリ面躰常ナラサル人品ナリ

 

無量寺を訪れた人(著者)が、襖越しに有髪の僧と言葉を交し、たばこ(烟艸)の火を台所の竃から貰い、謝礼して退いた。下の坂から見上げると、その人物は年齢四十あまりの惣髪で、見た目が普通でない風采であった。
といったような内容。

興味深い内容です。



東京国立博物館の文献『於保呂布称』の中の「虚無僧定法書」によると無量寺の取次連中の名前が遺されている。

【取次連中】というのは、本則を無量寺に取り次ぐ尺八指南役の人のこと。

「駿府府中
  無量寺現住
   仁嶽儀道
辰七月(宝暦10年7月)
       取次連中
        貫玉
        鐵拐
        貫車
        車龍
        沖石
        臥龍」

神田可遊氏より提供


6人の取次連中がいたことがわかります。
「無量寺現住 仁嶽儀道」とありますが、仁嶽儀道という人は歴代住職に名前がないようです。


宝暦10年(1760年)の頃は、駿府城は幕府直轄領の頃。この頃に、取次連中が六人も居たということは、尺八を吹く人が、駿府には幾人かいたということが伺われます。



旧東海道の地図が伝馬町にありました。

こうして見ると駿府城の目と鼻の先に虚無僧寺があります。

城下町も宿場町もすぐ近くですね。

いろんな人が無量寺には出入りしてたのかな、と想像膨らみます。



  
ようやく無量寺『探墓行』です👣

静岡駅からスタート!

静岡鉄道の線路沿いに東に向うと小さな山が見えてきます。


まずは、山の北側から。

藁科氏の史料の地図を頼りに探索。


まずは、

「日本虚無僧」の碑。


「日本虚無」まで判別可能。
掘り起こしてみたい…。


新しい遊歩道ができており、いかにも廃道となっております。

左側に新しい遊歩道。
右側が旧道。ほぼ無い状態。

 

埋没しそう…。


今後の保存が心配です。

そして、「日本虚無僧」の碑を建立した理由を知りたいですね。謎ですね、これは。



そして無量寺跡地へ。



…と、ここかなと思ったら、




別の場所に入り込んだようです。

何か石碑がゴロンと転がっている…。

 

西国拾八番


調べてみましたが、これが何故ここにゴロンとしているのかは不明…。



開けた場所に出ました。

恐らく、ここですね。

感慨深い…。


写真を撮った時に龍が通った。
(という不確かな情報)



もしかしたら虚無僧の誰かが踏んだ石ころかも。

と、思うとますます感慨深い...。


 
こちら側は開けてます。

桜の咲く頃の風景。



頂上に行ってみます。


とても広い。


清水山古墳

古墳だったんですね。


石碑が立っています。

裏面には、全国茶業者代表とあります。

余談ですが、静岡市内で空襲を経験した女性から聞いた話によると、街中の空襲から逃げてきたら、真っ先に軍人さんが山にいたと話してくれたのを、思い出しました。



下山して、

虚無僧の墓がある、菩提寺清水寺に向かいます。

続きはこちら↓🐾



参考文献
神田可遊著『尺八研究 第4号』
小菅大徹著「駿河無量寺の記録」(虚無僧研究会機関誌『一音成仏第41号』)
藁科一男「福聚山無量寺の記録」(虚無僧研究会機関誌『一音成仏第31号』)
高橋空山『普化宗史』
阿部正信編『駿国雑志』
小川春夫著『虚無僧寺院(普化禅宗寺)考 資料集』


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