「明暗對山派」の曲はどこからやってきたのか。
「明暗對山派」シリーズ其の三です。
前回、前々回と樋口對山の略歴、明暗對山派の由来、明暗真法流について探求しました。
今回は、對山派の曲を整理したいと思います。
樋口對山の伝承曲は32曲。
兼友西園、東京の琴古流、九州の博多一朝軒などから曲を整譜しまとめました。
<西園流>
兼友西園ほかからの伝承
〈琴古流〉
主に荒木古童より伝承
滝川中和伝
九州地方の伝曲
主に一朝軒関係者より伝承であろう
東北地方の伝曲
伝承不明
〈解説〉
明治27〜8年、對山は、東福寺管長・敬冲の勧めで、東京に出て荒木古童に入門する。
一二三調、鉢返之曲、虚鐸(真虚霊)、鹿乃遠音を荒木古童より伝承。
明治28年、川瀬順輔の紹介で滝川中和にも就く。吉野曲(三谷流)、深夜ノ曲(三夜菅垣)、門開曲を伝承。
一二三調、鉢返之曲は双方から習った可能性はあるが、鉢返の短さからみると中和のものをとったと思われる。一二三調は、甲音部分を乙音に変え、全音乙音で統一した。
その他、龍吟虚空、鹿乃遠音も琴古流より伝承。
その後、明治28年に九州旅行。
博多一朝軒の磯一蝶老人から、雲井の曲、吾妻の曲、薩慈等を取得したという
筑紫鈴慕は博多一朝軒伝。九州鈴慕と同じく棒薩慈である。
陸奥鈴慕、打波の曲は奥州系であるため、對山の門人、中村洞山からのものであろうか。
打波の曲は奥州鈴慕(布袋軒鈴慕)の鉢返しの部分を独立させたものであろう。小林紫山が後に「打鼓」とした。打波の曲(打鼓)について竹内史光師の譜には「曲中に、ところどころ奥州流の手法が出てくるが、或は東北地方で作られた曲かもしれない」とある。史光師の譜面には、最初に「ツレール」が付け足されている。
曙の調は對山の最晩年のものであろう。奥州系のものか九州系のものか確定できない。
鳳叫虚空は、津野田露月伝と高橋空山『普化宗史』にあるが出処は分からない。上京中に就いた滝川中和の曲を統合・編曲したのではないかとのこと。
なお、西園流には琴古流の曲が流れ込んでいる。虚空、滝落し、虚鈴(盤渉調)など。巣籠は宗悦流とほぼ同曲。調子は真法流と同じ。
名古屋地方の尺八にはいくつか系統があって譜も記譜法も若干違うので、1つの譜を見て似てる似てないを判断するのは無理がある。「コロコロ」は、對山は「ホルホル」系だった。對山は尺八のほか雅楽の弟子も多く、月琴の譜も出しており明清楽にも詳しかったようです。書も遠山廬山について尺八がダメなら書で、というほど達筆であった。
以上、曲の説明、注釈等は、神田可遊著「尺八通信 7〜10号」神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」を参照しました。曲の伝承は全て神田可遊師から教えて頂いたものです。
虚鈴、虚空、鈴慕・霧海篪、薩慈、等々の各曲の由来、各流派の説明については、神田可遊著「虚無僧と尺八筆記」の「尺八古典本曲解説」にとても詳しくあるので是非ご一読を。
当初は今井宏泉著「素浪人 塚本竹甫」 に纏められた曲の伝承を参照に「普大寺伝11曲」と書いておりましたが、これは稲垣衣白著『對山遺譜』のあとがきに書かれているもので、谷北無竹や富森虚山説を紹介しているだけで、研究に使用できるものでは無いとのことです。普大寺伝は権威付けに言われており、「西園流」の伝曲というのが間違いないとのこと。
虚無僧寺伝承の権威は強し!
「普大寺伝」はあちこちで散見します。
かくいう私も「調子」に書いている!汗
ここで、
明治・大正・昭和(戦前)の虚無僧事情!
尺八研究家の神田可遊師に教えて頂きました。
明治から昭和初期までの虚無僧は、本曲など吹いていなかったんですね。虚無僧が六段を吹いていたとは。
明暗教会内は、名は明暗流ではあるが、何でも吹いて良い自由な雰囲気の流派であったよう。
昭和62年の「尺八評論」8号に、樋口對山の言葉で、明治はじめの頃の状況が書かれています。
これを書いた著者の蕉雨という人は、井手蕉雨といい、劇作家で小説家でもあるようです。
京都の松原通六原(清水寺の近く)の樋口對山宅に訪れ、その時對山が話す様子をつぶさに書き留めています。上記にあるのは一部分なので、井手蕉雨は相当な記憶力です。もしかしたらインタビュー形式だったのかな。對山が子供の頃、尺八が好きすぎて親に尺八を取り上げられていた話、博覧会での四天王寺の宝物の巻物の尺八の絵の話、あとは對山が干ばつの村で尺八を吹いたら雨が降ってきた話等々。その他興味深いこと盛りだくさんなので、その他のことはまたの機会に譲りたいと思います。
この時代も、人々に求められていたのは、流行りの曲であり、「本曲を教へると甚だ不満足」ということで、本曲というものはやはり特殊なものなんだということが分かります。
谷北無竹が「明暗對山流」を唱えた経緯について
今井宏泉著「素浪人 塚本竹甫」によると、
その後、1956年に、谷北無竹は「明暗対山流」を唱える。この理由については、「今度思立ちて、対山流としても小生の尺八音に共鳴された方々に血脉書(系譜)を渡したいと思います。今の分では對山先生の流名がなくなるおそれがあるし、只、明暗、明暗だけでは本曲、即ち対山先生が訳教聚集されたものが意味なく消えることが残念でなりません。」と稲垣衣白に宛てた手紙にあり、對山の名を残さなければ、對山が収集した本曲が後世に残らなくなる、という危惧の思いであったことが伺われる。
現在の上田流はこちら↓
上田流の歴史も長いですね〜。
そして「明暗對山流」を旗揚げ。
に、至ります。
まだまだやることは沢山ありそうです💦
因に、竹内史光師が谷北無竹から伝承した曲はこちら。
筑後薩字は竹内史光師は大阪の広沢静輝師より伝承したものと解説。林棲軒(福岡県)伝。
對山派以外のその他の伝承曲
明暗対山派の、門開曲、深夜ノ曲、虎嘯虚空は、竹内史光師が谷北無竹師に習おうと思っていた矢先に、谷北師が亡くなられたそうです。亡くなられる3日前には名古屋でお会いしていたとのこと。1981年の竹友社道場にての講義にて話しておられました。
こちらは、西園流の大釋艸園師に頂いた善哉の楽譜の解説部分。
伝承経路がとても丁寧に書かれています。
ホント、これは大釋師を見習わなければいけないです。
ここに兼友西園について付け加えますと、
名古屋には普済寺の尺八指南所があったので、西園は普済寺系の曲(フホウエヤ譜)を習った可能性も高い。しかし、普大寺の助吹の元締が名古屋にいたと思われるフシもあり(「虚無僧雑記」)、一月寺末の普大寺の曲も習得したのであろう。神田可遊著「尺八評論」6号より。小菅大徹著「宗悦流上村雪翁の自筆本曲譜」(『一音成仏 32号』)にも、浦本浙潮、富森虚山の記述より、西園流の伝承は遠州普大寺ではなく、勢州普済寺ではないかという論考をされている。
と、いうことですが、
まだ勢州普済寺に到達していません...汗
さて、樋口對山について三回に分けて探求してきましたが、まだまだ書ききれないこと多々あります。明暗對山派は死語に近いと神田可遊師が言われましたが、確かにそうですね。「古典本曲」という括りで共有している感があります。
あくまでも誰かから習わなければいけない伝承曲なのですが、「古典本曲」は昔の虚無僧が吹いていたものなんだから、「共有」していい「みんなの物」みたいな感じもあり、細かい手が消えていってしまい独自に解釈され、全く別物になっている曲もある気がします。竹内史光師が谷北無竹師から習ったという解説を聞くと、楽譜では同じ事を書かれていても、解釈が全然違う場合がよくあります。それは楽譜には書かれていないので習う人から聞くしか無い。本曲の楽譜がネットで売られていますが、どうするつもりなんだろうと不思議でなりません。研究されている人が集めているかも知れませんが。史光師門下では、楽譜のみの販売はしていませんでした。
兎にも角にも全て教えて頂き、尺八研究家の神田可遊師に感謝です。
とりあえず、自分が吹いている曲がどこからやってきたかくらいは知っていたほうが良いと思うので、對山派の曲であれば簡単ではありますが、こちらを参考にしていただければ幸いです。ただし、神田師が言われるように對山は年代によって、譜や手も変わり、對山没後に曲名・曲調など変遷しているので、その後の系統も把握しておくことは必要ですね。
個人的には、本曲は「言葉」に近いとも感じます。日本列島は長い。言葉も文化も竹もそれぞれ違う。虚無僧尺八は法器だと格をつけて一辺倒になってしまわずに、この曲はどこからやってきたのか、どこで誰が吹いていたのか、吹いていた人はどんな人であったのか、どんな言葉を発していたのか、知るべきだとつくづく感じました。
古典尺八楽愛好会で勉強会を主催している以上、できる限り真実に基づいた情報を知るべきだし、皆さんにもちゃんとお伝えせねばと改めて思うのでした。
見出し画像は「對山譜拾遺 明暗三十七世谷北無竹集」より
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