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言いたい事は竹で言え☝️尺八名士のことば☆格言集
言いたい事は竹で言え
これは神如道が言ったことば。
直弟子である小出虚風師の「神如道師の思い出話」より私は知ることになった。
「竹吹きは物言いたければ竹で言え」
魅され慕われ自然に人が寄る、とのこと。
私も「言いたいことは竹で言いたい」ところは山々でありますが、言語を使ってお伝えしなくては全くの意味不明になってしまうので、あえて、ことばで名士のことばをお伝えしたいと思います。
見出し画像の写真は、小梨錦水(右)と浦本浙潮(左)。稲垣衣白著「尺八本曲と古管尺八を愛好された浦本浙潮先生」より。
譜を吹くな、曲を吹け
この格言的なフレーズは、虚無僧尺八を、やっている人なら一度は師匠や先輩などから聞いたことがあるのでは無いでしょうか。
一体誰が言い出したのでしょうか。
似たようなフレーズに、
譜の番人になるな、お守りとしろ
これらは、藤川流光師から言われたことば。竹内史光師も門下の集まりで、「間違えてもいいから暗譜で吹きなさい」とおっしゃっておりました。
竹内史光師は、この頃80歳を過ぎてあまり演奏されなくなった頃。門下の前での一言にこのことだけを言われました。
無い音を聞け!
こちらも藤川師からのことば。
これはブルース・リーの「考えるな!感じろ」に通ずるものでしょうか。
・・・ちょっと違うか…。
余は学問の如きもやはり人格の表現であると、信じておる。況んや感情の世界に多くの交渉を持つ音楽をやである。三十二音符を用いた月光曲にベートーベンの人格が表れると同様に、吾が普化尺八においては単なるレの一音、一呼吸の中に直ちにその人格が表れて来る。それは一色な墨絵の中に容易に相阿弥の人格が出てくると一般だ。吹いてならなくと面白いのは茲だ。技巧を離れても尚人間の面白さが残る。其処に無韻の韻を聴くのだ。
浦本浙潮
「無韻の韻を聴く」
先程の「無い音」によく似ていますが、これは一呼吸の中に人格が表れる、ということのようです。
「吹け、フウワリと尺八の音を出せ」
小梨錦水
小梨錦水からは、ただこれを繰り返し繰り返し言われるだけで、他に尺八らしい講釈は一言も話さなかったそうな。
「フウワリ」ですか…。これもかなりの難題です。
尺八の至境は、自ら楽しむ程度ではまだ浅い。竹を楽しませる境地に達しなければ至境といい難いという。竹はもはや「他」のものではない。この境地は1つ竹一如の境地である。この時、竹は道の具だといわれる「道具」以上のものである。
浦本浙潮
自分ではなく、竹を楽しませる境地。
竹を見出すことは、さながら友を見出すことに外ならぬ
浦本浙潮
いやはや、どっちもその辺に転がってはいない。
一、尺八を身体の一部と心得ること。
一、姿勢を正さずして尺八を手にしないこと。
一、尺八を吹くときは何も考えないこと。
尺八を吹くことによって先ず人間を作るんだ。人間が出来なくては何をやってもろくな事はできない。と思ったら嫌な勤務も苦にならなくなった。
越後明暗流 小山峰嘯
まずは人間づくりと言う事です。
私から望みたい事は、尺八が古来から持っている獨特の持味を、現代の若い方々に、見直して貰ひ度いものです。尺八は一方には機械的なよさはありませんが、哲學的な味があります。それを充分に生かせて慾しいのです。
尺八は習ふのにも初心者が吹奏するのが非常にむづかしいが、それには尺八の先生なり製管の方々の専門家に大きな責任があると思ひます。尺八が何者であるか考へて戴き度い。新しい技法も結構ですが、古い尺八を充分生かして頂けたら必ず新しいものもそこから生まれて来ると思ひます
筝曲家 宮城道雄
自分じゃなくて、尺八が何者であるかを考える。
もはや禅問答になってきた。
尺八の吹奏家が一流一派だけの吹き方しか知らぬものは、料理の食べ方を一種類しか知らぬ事と同様である。(中略)色々あるのを食はず嫌ひと同一である。他流派も又勉強すべきものである。必ず一流一派には長所がある。勿論音楽的でないものもないとは云へぬ。而しそんな短所を抜き出して云々し、獨りよがりになっている事などは、本當の尺八の持味や、哲学味を、知らぬものと云へる。廃他感念よりも抱合して、いゝ處を取る事を忘れてはならぬ。
神如道
ワタクシわりと、毎日同じ食べ物でよいタイプですので、尺八にもそれが出ていないかちょっと心配です。
如何なる音楽も、鎖国的や独善的であってはならない。
七孔尺八宗家 亀森和風
先ほどの神如道の言葉を短く言うとこうなりますね。
禅僧が禅道を修行するように無念無想で吹くべし。尺八は吐き出す息が音になる。その息を静かに観ずることによって無心になれる。心が乱れれば息も乱れ音も乱れる。禅僧は尺八を座禅の弁法と思って吹き人にすすめたものである。
人はこれを一音成仏とか、吹禅とかいっている。
私はこれを気息静観といっている。
越後明暗流 小山峰嘯氏の師匠より
「吐く息を静かに観ずる」=「気息静観」
「観ずる」とは、心を静めてありのままを正しくながめる。心静かに瞑想して悟ること。
かくて吾々普化尺八衆に要請されているものは、僅かながらに残された形を基礎として、よりよきものを明日の普化尺八として新たに創造して行く事以外に無い。それはあくまで精進してより高き芸術的心境に達するより他はない。
浦本浙潮
精進精進。
吹きくたびれて寝る。起きるとまた同じ曲を吹く。吹きくたびれてその日も床につく。それより何物もない。(中略)しかし吾々は竹韻を楽しみがたいために生きておるので、もし竹が吹けなかった日には命をお返し申すより外は詮術がないのである。
狂竹の言葉 浦本浙潮「明暗」
もはや谷狂竹そのものが格言的。
谷狂竹が登場したので、西村虚空師のご子息、虚流さんに聞いた腹式呼吸のアドバイス。
すーーーっと息を吸いきってから、もう一息すっと吸う。
すーーーっと息を吐ききってから、あと一息すっと吐く。
なるほど、もう一息、あと一息が大事なんですね。
「人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや」と、竹韻人と一如にしてこの道は自ら教養を高くし修行を重ねる以外には如何ともする事が出来ない
浦本浙潮
さらには教養が必要と。
本曲は本人曲と申すが、本人が完成されての、後のこと。聞声悟道の達成が第一。
後は、その曲を自分の境涯で吹き、また吹くことにより「境涯を練れ」。
谷北無竹
聞声悟道とは、
「聞声悟道、見色明心(けんしきみょうしん)」という雲門和尚の言葉の一節。
声を聞いて道を悟り、色を見て心を明らかにするという意味。
「本曲は本人曲」という言葉が一人歩きしているような気がしますが、本人が完成されてからのことで、とにかく吹いて吹いて吹きまくるしかないのですね。
禅の修行の過程で、もっとも大事なことは "そのものになりきる。そのものになりきって行ずる" と言うことです。吹禅の場合も同様で "尺八と一つになりきる。その曲と一つになりきる" これが大事なことです。尺八を吹く技術だけの名人になってはいけない。その根底に流れる心を体得することが大切です。即ち "人を吹く" ことです。
谷耕月
もう、自分が曲そのものなる。とのこと!
愈々吹いて愈々難きを知る
浦本浙潮
まさに、今の状況でしょうか。
人が一度吹く処を己れ十度繰り返し、人が十遍吹く処を己れ百遍吹かねばならぬ。
浦本浙潮
はい。汗
さらには、
不完全な十曲より完全な一曲を、不完全な一曲より完全な一行を。
竹内史光
はい。汗
格言集、如何でしたでしょうか。
さりとていくら格言を読んで悟ったとしても尺八は、瞬時に上手くはならない。
ということで結局は、
鍛錬、鍛錬!
ですね。
あとは自ずと竹が教えてくれます。
(片羽の格言)
なんてね笑
参考文献
稲垣衣白著「尺八本曲と古管尺八を愛好された浦本浙潮先生」
今井宏泉著「素浪人 塚本竹甫」
小山峰嘯著「尺八の作り方」
その他、あちこちメモした次第で出典元が不明になっているものあり。
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